荒木村重と2人の軍師②
天正5年(1577)秀吉は、毛利輝元の勢力下であった中国地方への侵攻を開始した。同6月、播磨の別所長治が三木城にこもって反旗を翻してきた。三木城はなかなか陥落せず、秀吉は官兵衛の勧めで籠城戦に切り替えた。その矢先、今まで共に戦ってきた摂津有岡城の荒木村重が、信長を裏切り戦線を離脱、居城へ帰ってしまった。敵前逃亡である。三木城に取り掛かっていた秀吉は、軍師官兵衛を村重のいる有岡城に差し向け、説得にあたらせた。しかし、官兵衛は逆に捕えられ、城の土牢に閉じ込められてしまった。その事を知らない疑り深い信長は「官兵衛め 村重に寝返ったか」と激怒、長浜城に人質となっていた官兵衛の嫡男松寿丸(のちの黒田長政)を殺せと、もう一人の秀吉の軍師竹中半兵衛に命じてきた。長浜城で療養中であった半兵衛はこれを聞いて「官兵衛殿は忠義の志が浅からぬお人、その上知恵もあります。もし、人質の松寿丸を殺せば、官兵衛殿は恨みを抱き敵方に廻ります。さすれば中国地方の平定も上手く進まなくなるでしょう」と信長に諫言した。しかし、部下の意見を聞かない、自分の考えが絶対であると信じている信長は、半兵衛の意見を無視した。無視された半兵衛は、命令通り松寿丸を殺すと信長に報告、その足で松寿丸を城から連れ出し、半兵衛の居城である菩提山城にかくまってしまった。主に対する重大な命令違反である。しかし、「官兵衛殿は絶対に有岡城で生きている」と信じ、中国戦線の展望を見据え、また官兵衛の資質を高く買っていた故の、半兵衛の行動であった。半兵衛の読みは当たった。官兵衛が幽閉されてから2年後の天正7年9月、村重が城外へ逃亡、落城した有岡城から官兵衛が救い出された。信長の部下を信用する気持ちがないままの脱出劇であった。信長の部下を機械の部品のように使い捨てるやり方の是非の結果は、天正10年の「本能寺の変」で出される。半兵衛の機転がなければ、官兵衛は毛利方へ就き、秀吉の中国大返しもなく、天下は勿論秀吉には回って来なかったと言える。救い出された官兵衛は、息子の一件を聞き及び、半兵衛に深く感謝したが、当の半兵衛は三木城攻略の最中、病に冒されこの世の人ではなかった。36歳の若さで陣中で没した。官兵衛が有岡城から救出される3ヶ月前の事であった。
竹中半兵衛は、美濃国斎藤道三の家臣で竹中重元の嫡男として生まれた。父の死後17歳で家督を継ぎ、美濃国主斉藤義龍、龍興に仕えた。永禄7年(1564)21歳の時、龍興の居城稲葉山城を、信長はなかなか陥落陥落させることができないでいたが、半兵衛はわずか10数人で白昼堂々乗っ取ってしまった。当時半兵衛は龍興の家臣であったが、主君の慢心と側近の横暴を諌めるために、城中にいた弟の病気見舞いと称して、側近たちを排除、龍興を追い出してしまった。この事を知った信長は、大録を提示して城を引き渡すように伝えたが、半兵衛はこれを拒否、城を主に返還、隠棲してしまった。これを知った秀吉は半兵衛の元に何度も足を運び、軍師に迎えた。古代中国魏蜀呉の「三国志」の時代、後漢の劉備玄徳が「三顧の礼」をもって諸葛孔明を軍師に迎えた故事に倣った。秀吉がこれを知っていたかどうか、また秀吉の口舌に半兵衛が負けた結果なのかは定かではない。以来、半兵衛は得意の軍略で秀吉をサポート、天下人への道を補佐した。時代は少し遅れて秀吉の唯一の親派石田三成もこの故事に倣い、智勇にたけた島左近を、自己の知行の半分2万石をもって家老に迎えた。当時の落首に「三成に過ぎたるものが二つあり、島の左近に佐和山の城」と詠まれたが、三成自身が大谷吉継の指摘する通りへっくわい者=横柄な人間のため、諸大名の意思疎通と信頼に欠け関ヶ原で惜敗している。「黒田家譜」では、半兵衛のことを「此人知略武勇あり、信長公に仕え、ひでよしの先備となる。秀吉甚だ其之死を惜しみ給う」と示している。また、江戸初期の「豊鑑」にも「秀吉限りなく悲しび、劉備、孔明をを失ひしに異ならず」とある。
救い出された黒田官兵衛孝高は天文15年(1546)播磨国姫路に生を受け、17歳で官兵衛を名乗る。その後信長の命で秀吉の軍師として仕えた。官兵衛37歳の時「本能寺の変」が勃発した。慌てふためく秀吉を押さえ、すぐさま清水宗治と講和し、中国路をとってかえし、主君の仇光秀を討つべしと進言したのが官兵衛である。天下人となった秀吉が没すると、政権内の武闘派と文史派が対立、その隙間に入り込んだ家康の策動により「関ヶ原の戦い」が誘導されていった。三成・毛利輝元らvs家康・秀吉恩顧の大名たちの戦いであった。この戦いで西軍についていた吉川広家や小早川秀秋を東軍に裏切らせたのは、官兵衛の嫡男黒田長政である。当の本人官兵衛は国元の豊前国にいた。官兵衛はこの戦いに乗じ九州全土を平定本州に渡り、東西勝利した方と戦い、天下を取ろうと考えていたが、生憎と戦いは1日で終わり時間切れとなってしまった。嫡男長政は「小山会議」などの功績で論功行賞第一とされ、家康は筑前一国52万石を与え、長政の手を握って感謝した。その自慢話を父官兵衛に話した処、それを聞いた官兵衛は「家康が握りしめた手は右か左か?その時お前の片方の手は何をしていたのか?遊んでいた片方の手で家康を刺せば天下は転がりこんできたものを」と嘆いたと云う。親の心子知らずであった。関ヶ原の戦い」以降黒田藩はお家騒動を乗り越えて、筑前で明治維新を迎えることになる。次回信長を裏切った男たちは本命明智光秀です。坂本城、正室煕子のエピソードを交えながらお送りします。乞うご期待 <チーム江戸>
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