「姫たちの落城」10章信長を裏切った男たちⅱ 荒木村重と二人の軍師①
天正5年(1577)毛利の勢力下にあった中国地方の司令官に任命された秀吉は、侵攻を開始した。同6年3月、播磨国の別所長治が三木城にこもって反旗を翻した。長治の城はなかなか陥落せず、秀吉は籠城戦に切り替えた。この作戦を進言したのは秀吉の二人目の軍師黒田官兵衛である。同6年、家来筋の中川清秀が敵方の石山本願寺に兵糧を横流しをした。これが信長に発覚した。微妙な立場に立たされた村重は、清秀の「信長という人間は 1度寝返った人間は決して許さない」と進言され、「三木合戦」の最中、今度は摂津有岡城の荒木村重が、高山左近らと共に信長に対し謀反を起こし、突如戦線を離脱、居城の有岡城(伊丹城を改称)に戻ってしまった。「有岡城の戦い」この謀叛に驚いた信長は有岡城を攻撃、戦いは1年近くも続いたが、信長家臣滝川一益の凋落によって内通者が出て開城、村重は妻、家臣、家来たちを見捨てて落ち延びていった。
荒木村重は父の代から池田勝正の家臣として仕え、畿内を治めた三木氏に寝返り勝正を追放した。のち、信長に気に入られ家臣となり、天正元年(1573)茨木城を与えられ摂津を掌握した。一方で義昭方に属していた池田家はやがて信長に下り、村重はかっての主筋である池田家を家臣とする「下剋上」をなしとげた。こうして足利政権、三好政権を通じて、摂津を中心であった芥川山城と越水城を廃し、有岡城を中心とした新たな支配体制を構築していった。その後も信長に従い「越前一向一揆」「石山合戦」「紀州征伐」にも参戦、武功を上げていった。そうした矢先の中川清秀の敵方への横流しであった。一時は光秀らに説得され、安土城へ釈明のため向かったが、横流しした本人の進言により有岡城へ戻ってしまう辺り、村重は主信長に対し疑心暗鬼の主従関係を抱いていたものと思われる。
村重に戦線を離脱された秀吉は、村重と旧知の間柄である黒田官兵衛を有岡城に派遣、村重の翻意を促したが、逆に村重は官兵衛を拘束、土牢に閉じこめてしまった。以後、有岡城に戻った村重は籠城して抗戦していたが、信長に対し共に反旗を翻した筈の中川清秀と高山右近が、逆に信長方に寝返ってしまったため、また、期待の毛利軍も援軍に現れ無かったため、村重にとって「泣きっ面に蜂」であったが、村重は翌7年9月、有岡城を出て尼崎城に入り再び信長と抗戦した。毛利方(村上水軍)が補給路として確保していた尼崎城と花隈城を確実に抑える事で、石山本願寺や毛利方との連携を維持するための、戦略的撤退との見方も出来る。この動きを見た信長は、尼崎城と花隈城を明け渡せば、各々の妻子は助けるという約定を、荒木家の家臣たちと取り交わした。これを聞いた家臣らは、妻子を人質として有岡城に残して、尼崎城村重に説得に行ったが、村重は受け入れず、家臣らは自暴自棄となり自分たちの家族を見捨てて、主奔してしまうことになる。信長は激怒、残された家族は恐怖に陥った。信長は見せしめのため、家臣の妻子たちの処刑を命じた。同年12月10日、122人の者たちが鉄砲や長刀で殺された。続く12月16日、村重正室「だし」を含む村重一族と重臣たちの家族36人が京へ護送され、六条河原で斬首された。信長の腹いせ解消の道具とされた。太平洋戦争においても、護られるべき軍隊に逃げられた後、残された家族たちは集団自決に追い込まれたり、殺戮、暴行、捕虜収容所に収容させられた。妻子を犠牲にした村重は、嫡男と共に花隈城に移り、最終的には毛利家に亡命、尾道に隠遁したとされている。天正10年(1582)「本能寺の変」の後、村重は尾道から大坂、堺に移り、茶人として復活、利休などと親交をもち、秀吉の庇護を受けていたが、秀吉が出陣中の悪口が寧々に露見、処罰を恐れ出家した。同14年堺で死去、52歳であった。妻子を犠牲にして戦国の世を勝手に渡り歩いた村重はあの世とやらで、無理矢理先に行かせた美形の妻「だし」に何と釈明したのであろうか?戦国時代においても、ましてや現代においては、正室「だし」は「何故お前様というお人は」と、決して納得しなかったと確信できる。
次回信長を裏切った男②は、村重に監禁された黒田官兵衛と、信長を欺いてまでその息子長政を救った、秀吉もう一人の軍師竹中半兵衛の物語です。乞うご期待です。<チーム江戸>
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