明智光秀「光と影」2丹波国制圧
天正6年(1578)信長の命令で丹波攻略を進めていた光秀は、丹波国制圧の拠点として山城国と摂津国の国境、山陰道の要衝亀山(現亀岡)の保津川と、沼地を北に望む愛宕山に、三層の天守をもつ「丹波亀山城」を築いた。亀山城は平山城で「本能寺の変」ののち、豊臣政権下でもこの城は重視され、羽柴秀勝らが城主を務め、小早川秀秋の代で天守が五層に改められたという。「関ヶ原の戦い」後、家康は大坂城の淀君・秀頼母子の動向をにらみ更に拡張、藤堂高虎の縄張りによる天下普請がおこなわれ、新たに五重五層の大天守が築かれた。譜代大名を3万2千石で入封、松平の代で明治を迎えている。亀山城はJR山陰本線亀岡からバス10分、現在では亀岡駅から保津峡駅への道は「明智越え」と呼ばれ、約4時間のハイキングコースとなっている。
同年8月、娘玉(ガラシャ)を正式に細川忠興へ輿入れさせた。これは明智家と細川家の融和を図った信長の命令であった。やっと腰を据えて丹波平定に取り掛かると思っていた矢先、摂津国荒木村重が石山本願寺や毛利方に内通して信長を裏切った。村重が支配する有岡城、尼崎城、花隈城は播磨国への交通の要衝であり、中国地方へ進駐していた秀吉軍が孤立、崩壊する恐れがあった。信長は村重の謀反に対応するため、安土城を捨て本拠地を一気に摂津国に据えようとした。如何に村重の脅威が大きかったが解る。しかしその後、村重の与力大名である高槻城の高山右近、茨木城の中川清秀が信長に協力を申し出たことで状況は一変、村重の城を包囲、本願寺、毛利方との連絡ルートを断ち、村重を立ち枯れさせる作戦をとったため、村重は花隈城から落ち延び毛利輝元に亡命した。天正8年、石山本願寺顕如も退去、抵抗していた息子の教如も退去し、信長の長年の懸案事項の一つが解消された。
丹波国平定に乗り出していた光秀は、天正7年(1579)「八上城」と「黒井城」を落とし、丹波の国を平定した光秀に、翌年信長は丹波国を与えた。天正6年から7年にかけ、光秀は篠山盆地と街道を見下ろす、丹波富士と呼ばれた高城山に築かれた八上城を攻略した。4年に渡る丹波攻めの舞台である、波多野秀治の居城である八上城は、攻略が難航したため光秀は兵糧攻めに切り替えた。7年4月になると城内では兵糧も尽き果て、開城を打診してきた。既に城内では4~500人が餓死、生き延びた人々も極度の栄養失調のため青膨れしていた。信長は城明け渡しを条件に城主などの助命を約束したが、彼らは安土城で処刑された。これに怒った残っていた城兵たちが、人質となっていた光秀の母を殺害されたとされているがこの逸話は現代では後世の創作であり、史実ではないとされている。しかし当時、この八上城攻めは凄惨を極め、秀吉による鳥取城攻めは「鳥取城の飢え殺し」、家康と武田勝頼が戦った遠江国高天神城は「飢餓・玉砕戦」は、戦国時代においてもすざましい戦いとして知られているが、光秀はこれらの戦いより2年早く、既に兵糧責めによる飢え殺し作戦を講じていた。
一方の黒井城はJR福知山線黒井駅より徒歩20分、兵庫県丹波市のほぼ中央、365mの猪ノ口山の山頂を削った典型的な山城である。光秀がこの黒井城を攻めあぐねたのは、城主が「丹波の赤鬼」と恐れられていた赤井直正であったことによる。直正は天文23年(1554)養子に入っていた義父を殺しこの城を乗っ取った、典型的な下剋上の人間である、故に悪右衛門とも呼ばれている。その後京の管領細川氏や八上城の波多野氏と結び、三好氏と抗争しながら勢力を但馬、丹後に広げていった。天正4年から織田家丹波攻めの担当光秀に攻められていたが、八上城波多野秀治の援軍もあり抵抗を続けた。光秀が命からがら亀山城へ逃げ延びた一幕もあったが、同6年本人が病死してしまった。子の直義が継いだが翌7年に秀治が降伏したのを機に、孤立無援となりほどなく落城した。この黒井城の南麓に「興禅寺」がある。戦後光秀筆頭家老斉藤利三(としみつ)は黒井城に入り、この興禅寺を居館とした。娘のお福(春日局)はここで生まれ3歳までここで過ごした。お福は「山崎の戦い」後は母方の稲葉家で養育された。この館が興禅寺となったのは寛永3年(1626)乳母を務めた3代家光の時代の事である。黒井城がある猪ノ口山の麓を流れる黒井川の堤には、今でも春になると5千本の桜が満開になり、戦国時代の戦いを忘れさせる。
天正9年(1581)2月28日、信長は近畿諸大名を召しだし「京都大馬揃」を催行した。光秀はその奉行を命令された。正親町天皇臨席による一大軍事パレードは大成功に終り、光秀は面目を施した。8月になると信長は突然突然重臣の佐久間信盛、信栄父子を追放、その折檻状の中で「丹後国日向守働き 天下の面目を施し候」と激賞され。以下は秀吉、池田恒興、柴田勝家とされた。ライバル秀吉との関係も優勢となり、四国方面の仕込みも順調とあって、光秀栄誉の絶頂期であった。この馬揃えから1年もたたない同年、信長の奥行きを任せられていた光秀の妹御妻木(みつまき)が病死した。光秀にとって肉親を失った悲しみと同時に、政治的にも大きな損失であった。光秀の人生に影が落とし始めた。
次回信長を裏切った男たちⅲ明智光秀「光と影」は、いよいよ3「本能寺の変」です。
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