旅の原点 日本橋vs東京駅 ⅱ

 ♪「汽笛一声新橋を はや我が汽車は離れたり 愛宕の山に入り残る 月を旅路の友として」鉄道唱歌のメロディーは、JR品川駅東海道線ホームの発車メロディーに使われている。明治5年10月14日、新橋(汐留)~横浜(桜木町)間に鉄道が開通した。新橋駅が現在の汐留の位置に選定された理由は①駅造成に必要な土地を確保できた。➁市街地を避けて横浜への路線を伸ばせる位置にあった。③銀座にも比較的近い位置であった事などによる。尚、10月14日は当初「鉄道記念日」と呼ばれた。戦後は「国鉄の記念日」、現在は「鉄道の日」と呼ぶ。また、この日は多くの鉄道ファン、乗り鉄、音鉄、撮り鉄、廃線鉄、地酒を求めて旅をする呑み鉄などの人々のメモリアルデーとなっている。さらに、往時の機関車から最新の電車など、鉄道マニアにたまらない鉄道博物館は神田の旧万世橋駅跡から埼玉県大宮市に移転、子供たちから大人までが楽しんでいる。

 明治5年、日本初の鉄道路線駅として初代の新橋駅(のちの汐留駅)が開業した。明治42年、現在の新橋駅となっている烏森駅が開業し、新橋駅(現在の汐留駅)が、東海道本線の起点として首都東京の玄関口になっていた。日本の鉄道開業から12年後の大正3年12月20日、それまで各方面別に分かれていたターミナル駅を高架線で結び、その中間点に中央停車場として開業したのが東京駅である。東京駅の開業により東海道本線の起点が変更され、烏森駅を新橋駅に改称、初代の新橋駅は汐留駅と改称され、荷物・貨物列車の専用駅となった。また、神田駅よりに仮設されていた呉服橋駅は廃止された。明治22年神戸までの東海道本線が開通し、弥次さん喜多さんは「東海道中膝栗毛」、日本橋から三条大橋まで歩いて14日前後かかったが、鉄道開通で1日に短縮された。膝栗毛とは栗毛の馬を膝に変えて歩くことを云う。昭和5年から18年にかけて、かっての鉄道省「特急つばめ」は東京神戸間を最高時速95㌔、9時間で走った。現在なら新幹線、更には将来リニアで時速500の㌔の時代となる。明治39年、中国地方や九州などの私鉄、総延長4800万㌔余りを買収、鉄道国有化を目指す。軍国化が進んだ昭和7年2月、関東軍はハルピンを占領、3月満洲国建国を宣言し、「南満州鉄道=満鉄」は大連・長春(新京)間を10時間20分で運行、表定速度68,4㌔で運行した急行列車を「はと」と命名した。満鉄は昭和20年8月敗戦、ソ連軍満州侵攻時まで運行されたが、ソ連軍侵攻により逃げ遅れた邦人はロシアに強制抑留され、苛酷な労働を強いられた。「モンテンルパの唄」は当時の情景を唄った歌である。また、両親と離ればなれか、泣く泣く置き去りにされた子供たちは、中国残留孤児となり長く中国の養父母との生活となった。その子たちはまだ運の良い方であった。多くの子が飢えや満州の凍てつく寒さで凍死、人買いに売られていった。

 昭和61年、国鉄民営化関連の法案が成立、国鉄時代に償還不能になった債務24兆2000億円は平成10年度の国の一般会計に繰り込まれ、タバコ特別税収、国債などを財源とする国民負担で処理することになった。政府保証付国鉄長期債務残高は平成29年度3月末時点で17兆6570億円であった。昭和62年4月1日、日本国有鉄道の分割民営化によってJapan Railway、JR各社が発足した。この日から30周年を迎えたJR各社は旧国鉄時代に赤字に苦しんだことから、新会社では金を失わないようにとの思いを込めて、看板などの表示に「鉄」の字を「失」を使わずに「矢」を使用している。JR7社のうちJR四国のみが本来の鉄の字を使用しているが、通常の文書においては、各社とも正式名「東海旅客鉄道株式会社」などと、従来通りの「鉄」を使用している。

 昭和51年、国鉄時代のsⅬ(蒸気機関車)が全廃され、旅情感が一時薄れた時代もあったが、現在では「大井川鉄道」やJR中国の「山口線」、JR東日本の「磐越西線」などで復活、乗り鉄たちを楽しませている。旅の醍醐味はsⅬなどが走っていればそれに乗り、なければ1日中乗り放題の18きっぷで各駅停車の在来線に乗り、時間を惜しまずにその沿線のお国自慢を楽しむことである。お国自慢ならば車窓から眺めるびゅうスポット、シーサイドならば紺碧の空と煌めく海の色、黄昏時なら沈む真っ赤な夕陽が、空と海を黄金の世界に変えてくれる。たまたまそこに露天風呂などがあったら極楽浄土の仏さまになれる。東能代から「五能線」に乗り換えると世界遺産の白神山地を通る。その先のJR艫作(へなし)駅で降りると、その名もめでたい「黄金崎不老ふ死温泉」である。日本海の荒波が磯に打ち砕かれしぶきとなって、湯でのぼせた頭を冷やしてくれる。暫く浸かっていると旅で疲れた五体もほぐれ極楽極楽となる。山間部を通る在来線にも魅力がある。会津七日町と小出を結ぶ「只見線」はひたすら只見川を右に左に見て進む。エメラルドグリーン色した川の流れは山の木立に溶け込んでいく。ただそれだけの景色であるが、それが妙に飽きてこないから不思議である。また、同じ山間部を通る在来線でも、奈良と名古屋を結ぶ「関西本線」に春まだ浅き日の早朝に乗ると、月ヶ瀬口辺りで太陽熱により周りの水分が水蒸気となり、朝霧がたちこめる。天空の城か雲海テラスか、乳白色の温泉に入っているような錯覚におちいる。各駅停車の旅は地元のお勧め品が新鮮に、しかもお安く食べられる事である。朝市にでもでくわしたらトマト胡瓜、地元特産の果物が満載、1年分のビタミンが吸収できる。吞兵衛ならば「土讃線」高知駅と高知城の間にある屋台村がいい。ここでは地元高知の特産品を販売、訪れた客たちはそれらを買って帰る人も多いが、吞兵衛たちは待ちきれず、真ん中に据えられたテーブルに腰をおろし、先ずは乾杯となる。♪土佐は良い国 南をあけてと南国賛歌となる。もう一つ各駅停車の喜びは、たまにほんのりとした駅名や珍しい駅名に出くわす事である。JR北海道では愛国から幸福駅行きの切符が売れた。「釧網本線」釧路湿原の塘路(とうろ)、「函館本線」ポツポ屋の舞台・銭函など数多い。海峡を渡ると「津軽海峡線」の三厩(みんまや)、「北上線」のほっとゆだ、「奥羽本線」の後三年、「羽越本線」の象潟など歴史的駅名も出てくる。関東に近くになると「常磐線」勿来(なこそ)の来る勿れ、「八高線」の高麗川、「篠ノ井線」の姥捨、ここは三大車窓のひとつとなっている。JR西日本へ行くと「北陸本線」には虎姫、「紀勢本線」には紀伊姫、「山陽本線」には舞子、1番路線が長い「山陰本線」には、ヤブ医者の語源となった養父(やぶ)さんがいる。「木次線」には松本清張の「点と線」で著名となった亀嵩(かめだか)がある。四国へはいると18きっぷのポスターで売れた「予讃線」の下灘、「土讃線」の御免がある。関門海峡を歩いて渡るとJR九州「長崎本線」の鳥栖、「日豊本線」幸崎、この駅東方角は関あじ関さばの漁場、豊予海峡である。三大車窓えびの高原がある八代と隼人を結ぶ「肥薩線」には真幸(まさき)駅がある。真の幸せを願う全人類の下車駅である。ホームでは駅員さんが新婚さんなどに切符をまとめ販売、駅舎には真幸の鐘が設置され、この鐘を鳴らすと幸せが訪れるという。JR各社も黒字決算を維持するために真真剣である。「江戸純情派 チーム江戸」



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