18きっぷでゆく「歴史浪漫」旅の原点 日本橋vs東京駅ⅰ
慶応4年(1868)1月3日、鳥羽伏見の戦いで始まった「戊辰戦争」は、7日になって最後の将軍徳川慶喜征討の大号令が下り、王政復古が外国公使に通告された。4月11日江戸無血開城、9月会津落城、明治と改元された2年5月、最後の砦五稜郭が開城され、戊辰内乱は終了した。江戸を東京と改めた薩長土連合の明治新政府は、列強諸国に負けじと明治5年10月14日、新橋(汐留)~横浜(桜木町)間に鉄道を施設した。汽笛一声新橋をである。この鉄道唱歌のメロディーJR品川駅で使用されている。現在この10月14日は「鉄道記念日」となって、鉄道に携わる方々や鉄道ファンにとってメモリアルデーとなっている。今回はこの日に因んで、江戸時代における旅出発点の原点であった日本橋と、現在のゼロキロスポットである東京駅を追っていく。
<日本橋>天正18年(1590)7月北条氏滅亡、8月家康江戸入府。慶長8年(1603)征夷大将軍に就任し、幕府を開いた家康は日本橋を創架、翌9年日本橋を起点とする五街道のルートを定め、「一里塚」を設置していった。「日本橋 何里何里の 名付け親」一里塚には旅人が木陰で休めるように榎(エノキ)や松などが植えられた。「くたびれた 奴が見つける 一里塚」。因みに榎は枝がたくさん茂るので枝の木といわれ、榎となったという。現在でも日本橋を渡ると欄干に麒麟や獅子のモチーフに榎や松がデザイン化されたものを見ることが出来る。都内で一里塚を見ることの出来る箇所は18ヶ所、北区本郷通りにある滝野川警察署前の旧一里塚が、昔を忍ばせてくれる。一里塚と同じように距離の目安として設けられたものに「石標」がある。これには東西南北各方面への行先や、日本橋より何里、日本橋まで何里と刻まれている。東海道や中山道の旧道を歩いていると、ふと見つけることができる。現代の旅人もこれをみるともう少しだと安心感を覚える。時々黄昏時の見知らぬ土地で、道を間違えたのかとヒャとすることがある。そういう時この石標を見つけると、思わず抱きつきたい安心感を覚える。情報も明かりも乏しい江戸時代の旅人にとって、この気持ちは尚更であったと思われる。石標は庚申塔や道祖神、石地蔵や常夜灯などを兼ねて道筋を表しているものも多い。なかでもお地蔵様の足元に京へ何里などと刻まれていると、一気に江戸時代にタイムスリップしたようで楽しい。また、旅宿を主な機能として成立した交通上の集落を「宿場」という。鎌倉時代以降、町場として発展、室町、戦国時代になると大名たちが宿場の諸々の特権を与えその育成を図った。江戸時代になっても幕府は五街道はじめ諸街道の特権を認め、伝馬1匹につき屋敷地30~80坪を与え、その分の地子(地代)を免除するなどその育成を図ったが、その代償として公的輸送手段の確立を目標に、伝馬、人足の負担が各宿場に命じられていた。
「街道」は人と荷物の輸送を目的とした道路である。天武天皇の時代(672~86)国を駅路で結ぶ「七道制度」が定めらた。その頃の東海道は京~伊賀~伊勢~尾張~三(参)河~甲斐~伊豆~相模~三浦半島走水~海上~安房~上総下総~常陸のルートであった。江戸城前の浅草待乳山から下総国府台の間は、利根川、荒川など5本の大河が流れ込み、常に氾濫を繰り返す湿地帯であったため、人馬の往来は無理であった。これを可能にしたのは、江戸時代になっての関東郡代伊那忠次らによる「利根川東遷」工事である。江戸時代になると、お江戸日本橋を起点とした東海道は相模から太平洋岸を京へ上る本道以外にも、小杉を通過した「相州中原道」、世田谷から溝ノ口平塚へと通じた「平塚道」などがあった。旅人たちは「お江戸日本橋七ッ立」と、日本橋を早朝旅立っていった。七ッとは今でいう午前4時、江戸時代の時刻制度は九ッを午前0時とし、八ッ午前2時、七ッは午前4時を刻む。一ッの間は約2時間、春と秋の彼岸は昼夜ほぼ同じになるが、冬至夏至を頂点に冬は夜が長く、夏は昼が長くなる。従って冬の午前4時は空気も凍てつく暗闇の世界、夏になるとそろそろ東の空も赤味をおび鳥も啼き出す。この時刻日本橋を参勤交代のため、江戸を出立する大名行列を描いたのが、天保4年(1833)に刊行された歌川広重の「東海道五十三次」である。江戸幕府は3代家光の時代になって、諸大名の財力を削ぐために、「参勤交代制度」を確立した。「参勤」とは領国の大名が江戸へ出府して勤めること、「交代」とは国元へ帰る事を意味した。当初は42ヶ国、146家に上った。このことが街道の整備に繋がり、宿場の繁栄に繋がっていく訳であるが、幕府は街道筋に幕藩体制の維持を目指し「関所」を設けた。主なチェック項目は「入り鉄砲に出女」である。江戸屋敷に人質として留め置いている大名の婦女子たちが、勝手に国元へ戻らぬか?江戸の町に騒動の元となる鉄砲が密かに持ち込まれないか?を各関所は厳しく検査した。東海道筋では箱根に新居、中山道筋では碓氷峠と木曽福島に設けられていた。元来、関所は交通の要所要所に配置された、徴税や検問のための施設であるが、古代においては主に軍事目的として設けられた。我が国においては大和民族が蝦夷から国を守るため設けたのが勿来や白河(ともに福島県)念珠(新潟と山形の県境)の各関である。また、大化6年(646〉改新の詔に始まった防御の拠点は、鈴鹿と不破(三重県伊勢)、愛発(福井県越前)であった。中世においては関所は、大名や寺院の財源となっていた。これを彼らを衰退させるために撤廃したのが信長の「楽市楽座」である。古代ローマ帝国でもよく見られたが、古代中国においては河南省にあった関塞「函谷関」が著名である。この関より西を関中(関西)といい、以東を中原(関東)と呼ばれた。元々霊宝(旧関)に置かれていたが、漢代に東約150㌔離れた洛陽に近い新安(新石)に移転した。函谷関の名の由来は黄土層の急激な崖の中を数キロに渡り道が通る地形が、あたかも函の中を行く様に似ていることからとされている。旧関はBC361年、東方からの侵略を防ぐために秦の孝公によって黄河屈曲点に造られた。秦の国はBC905~206年間の周、春秋、戦国時代にかけて存在し、BC221年始皇帝により中国全土を統一した中国の王朝であるが、BC201年漢の劉備の咸陽入城により滅亡した。壮大な歴史を記した函谷関であるが、しかしながらわが国の唱歌「箱根八里」の歌のなかでは、箱根の山は天下の険で 函谷関は物ならずと歌われている。次回旅の原点は東京駅へ汽笛一声出発進行します。「江戸純情派 チーム江戸」しのつか でした。
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