芋ずくし 衣被&甘藷 ⅱ
江戸時代、芋と云えば里芋のことを指す。旧暦8月15日は「中秋の名月=芋名月」茹でた里芋の小芋=衣被を満月に供えたことからこう呼ばれた。因みに9月13日の十三夜には、栗や豆を供えたことから「栗名月」「豆名月」と呼ばれる。現在、満月に供えるピラミッド状の団子も、大和民族が米を常食とする以前、芋が我々人間の常食であった事を忘れないためだととも云われている。今でもパプアニューギニアの山間民族の中では、満月の夜、主食のタロ芋を供える習慣があるという。民族は異なっても発想の原点は変わらない。里芋が江戸時代、庶民に愛されその食卓に頻繁に上がった訳は、江戸近郊で里芋の柔らかくきめ細かい上質な里芋が沢山収穫され、しかも値段が安かったことによる。江戸中期、米1升が100文以上した時期、里芋は16文(1文≒¥25)、二八蕎麦1杯と同じ値段であった。この時代、長屋のカミさんが好む食べ物御三家は「里芋、タコ、南瓜」であった。江戸では地回りの醤油と砂糖、味醂で、甘辛くツヤよく煮付けて重箱に盛りつけた。上方では里芋を昆布だしであっさりと白煮されて食卓に上った。「重箱の 隅で留めを 芋刺され」。里芋はヌルヌルと転がって、箸では掴みにくい。その里芋を重箱の隅に追い詰めて、箸でズブッと仕留めた風景を詠んだ川柳である。タコは柔らかくほっこりと甘く桜色に茹でられた、南瓜はカボチャ、九州ではボーブラと呼ぶ。里芋同様甘くほっこりと煮られたものが好まれた。この南瓜にはベータカロチンが豊富で肌にも良い。女性お勧め食品である。
衣被(きぬかつぎ)は、俳句の世界では秋の季語である。この言葉の語源は、平安時代以降、女性たちが外出時に、風や埃から上半身を守るため、また、自分の顔を人前から隠す目的で、頭の上からすっぽりと布を被った。この姿、形が、皮を被った里芋の小芋によく似ていたことから、こう呼ぶようになったという。単に里芋の別名とされているが、里芋の中でもとりわけ小さい小芋を指すことが多い。鎌倉時代以降は、小袖の上に広袖の衣を被るようになっている。この衣被を皮のまま茹で、熱いうちに指で芋を摘まむと、皮の内から中身がつるんと出てくる。それに塩を軽く振るか醤油を垂らして、今ならバターかを付けて食べると、その辺のケーキよりホカホカして美味い。江戸のカミさんから娘まで好まれた訳が合点出来る。江戸っ子たちは里芋を「衣被 こはや易さと 言ふ固さ」と詠み、鈴木真砂女は「今生の 今が幸せ 衣被」と詠んでいる。私の人生これまで色んな苦労の連続であったが、これまで生きてきた中で今が1番幸せよと、そうしみじみと頷きながら詠んだ句である。
中央アメリカ原産甘藷は17th初頭コロンブスによって世界に広まっていった。我が国では九州薩摩国で栽培され始めたことから、さつま芋と呼ばれた。それから100年後、「享保の大飢饉」「天保の大飢饉」など冷害による凶作が相次いだ。8代吉宗は町奉行大岡忠相を通して、救荒食としてのさつま芋の栽培を、日本橋魚河岸の息子青木文蔵(昆陽)に命じ、災害時に領民が飢死させない対応を講じた。しかしながら、東北地方の各藩はその藩主や首脳部によって対応はまちまちであり、大飢饉に関わらず、常に備蓄食料を確保して1人の餓死者を出さないで済んだ藩もあれば、普段から何らの探索も打たず、はっきり言って無策状態で頻繁に襲う飢饉の度に対応が遅れ、数万人単位での犠牲を領民に強いた藩もあった。このことは現在の治政者にも言える。選挙公約時だけきれいごと並べ選挙民をだまし、当選後はひたすら我が身の栄達と懐を肥やし、肝心の政事は「あなた任せの おらが春」を決め込んでいる輩が何と多いことか、今も昔も政治の世界はしっかり先輩たちDNAを受け継ぎ、日本国の政治家は三流だと揶揄されている。反面、江戸時代の緊急時を救った昆陽先生は、毎年秋になると墓がある目黒不動尊で「甘藷祭」が開催され、石碑には「甘藷先生」と親しみを込めて刻まれている。政治家も呼び方だけは先生であるが。
焼き芋が江戸で定番になるのは天保年間(1830~1843)になってからである。町の辻、辻に「芋焼」の看板を出し、皮付芋を丸ごと素焼きにした「八里半」は栗(九里)に迫る味とされ、武蔵の国川越で獲れたさつま芋は「栗より(四里)旨い 十三里」ともてはやされた。十三里とは、川越の地が江戸から13里の距離にあったためである。当時の焼き芋の製法は、白っぽい炮烙の中に針金でさつま芋を吊るして、下から炭火で焼き上げた。焼き芋は「江戸繁盛記」によれば、「4文の焼き芋は幼児を泣きやませ、10文もあれば書生の飢えを癒すに足りる」とされ、安くて旨い栄養食であった。更に食べ物以外にも効用があり、女性たちの神経性さしこみ(癪、しゃく)の対症療法として、熱い焼き芋を患部に当てていると快方に向かった。「芋でさえ 煙をたてる 花の江戸」煙をたてるとは、芋を焼いているかまどの煙のこと。焼き芋を焼いて売り、生計をたてている事を詠んでいる。江戸の町は救荒食品であるさつま芋でさえ商売となったのである。次回は久しぶりの18きっぷでゆく「歴史浪漫」鉄道の日を記念して、旅の原点「日本橋vs東京駅」を追いかけます。乞うご期待です。<江戸純情派 チーム江戸> しのつか でした。
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