<江戸グルメ旅>芋名月・衣被&救荒野菜・甘藷ⅰ

 「暑さ寒さも彼岸まで」と、彼岸の日が過ぎると、あの暑かった地獄の日々はひとまずやわらぎ、これからは一雨毎に涼しさを増し、天空も高く澄み渡っていく。「月月に 月見る月は多けれど 月見る月は この月の月」(よみ人知らず)と詠まれた「中秋の名月」は、旧暦の8月15日、新暦である2025年の今年は10月7日となる。旧暦では7月から9月を秋としていたため、8月15日はちょうど秋の真ん中「中秋」にあたる。因みに7月は初秋、9月は晩秋と呼ぶが、今年の晩秋はまだ猛暑が続いている。その時代、中秋は1年を通し天空の月が最も美しい時期とされた。天空に輝き幻想的な世界を醸し出す月は、満ち欠けにより名称が異なる。新月から始まって、三日月、十三夜、十五夜・満月、十六夜、立待月、寝待月と変化していく。秋の月が綺麗に見えるのは、秋の空気が春や夏に比べ湿度が低く空気が乾燥しているため、大気が澄み渡り月がくっきりと見える。また、この季節は地球から月を見る月の角度が適切であるためだとされている。旧暦では新月の日から数えて15日目の夜を「十五夜」と呼ぶようになった。月見の習慣は古代中国から伝わり、平安の時代になって「中秋の名月」として、それを楽しむようになっていった。勿論これは貴族たちの間だけの話であり、平安の貴族たちは、月を愛で和歌を詠み、我が世を謳歌していた。庶民が月見を楽しめるようになるのは、江戸の元禄年間(1688~1704)あたりからで、隅田川に舟を浮かべて月見と洒落込んだ。尚、一部を除いて江戸庶民の月見の傾向は、花見と同様「月より団子」で、月見で一杯、一杯また一杯となり、月は単なる飲むための口実となっていった。さて、令和の東京の街はタワマンが建ち並び、月見と云えばビルの間から遠慮がちに月が見え隠れするか、屋上から首を傾け見る他はない。それでもやっと拝めた満月も、スモッグで秋の「朧月夜」となっており何とも味気がない。また、令和のかぐや姫も顔をスモッグで薄化粧して、咳き込みながら月へ帰っていくことになる。

 月見の供え物と云えば現代では「月見団子」、中国では月餅、我が国では芋類や豆類を供えていた。暦や天気予報のない時代、農民たちは月の満ち欠けで月日の流れを知り、季節の移り変わりを感じ、作物を育ててきた。収穫の秋になるとそれらの農作物を1年間世話になってきたお月様に供える事により、豊作への感謝、それらを食べれることの幸せを表現した。旧暦8月15日の中秋の名月を「芋名月」と呼ぶ所以は、秋は里芋やさつま芋の収穫時期にあたり、これらをお月様に供えて感謝したことによる。因みに旧暦9月13日は「栗名月」、栗や大豆を供える。月見は収穫祭の一面もあり、この他に団子や酒なども供えられた。団子と並んで月への供えものといえば尾花・芒(ススキ)、古来日本では背の高い稲穂は神様が降り立つ依り代(よりしろ)だと信じられ、そのため供え物として稲穂が用いられてきたが、中秋の名月のこの時期はまだ実がなる前のため、形が似ている芒が稲穂の代わりに用いられるようになったという。芒と月と草深い野山を表した「武蔵野」と云う古文がある。「武蔵野は 月の入るべき山もなし 草より出でて 草にこそ入れ」家康が江戸に入る前の武蔵の国は、江戸城東側には日比谷入り江が入り込み、その前には「日本橋波蝕台地」と呼ばれた砂洲(江戸前島)が、常盤橋御門から汐留辺りまで伸び、その前方は葦や葭が茂った果てしない江戸の海であった。江戸城西側は茫洋とした武蔵野の台地が続いていた。また、武蔵野を題材にした古文に「伊勢物語」がある。この第13段に「武蔵鐙(あぶみ、乗馬の際に脚を乗せる用具) さすが(あぶみに付ける金具)にかけて頼むには 問はぬもつらし 問ふもうるさし」といった文言がある。武蔵の国に出向いていた男が、京に置いてきた昔の女に「申し上げれば恥ずかしいが、申し上げなければ苦しい」と、武蔵の国に新しい女が出来たことを伝えた手紙に添えた和歌がこれである。名月と荒涼たる武蔵の国、男女の人間模様は現代と余り変わっていないようである。さて、次回ⅱはいよいよグルメ本菜、衣被(きぬかつぎ)に甘藷の話です。乞う、ご期待。<江戸純情派 チーム江戸> しのつか

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