ⅱ家光御台所鷹司孝子&最愛の側室お万の方
<鷹司孝子・本理院>家光の正室選びは、母江が元和8年(1622)に家光が19歳になった頃から積極的に動き始めた。「大坂冬の陣・夏の陣」以降、徳川家の臣下なった大名の姫たちではバランスが欠けるとして、江は徳川家の権威を高めるため近衛家や九条家などの五摂家からの縁組みを模索した。しかし、江戸城に居住する江には、いずれの姫が我が息子にふさわしいかその人選が危ぶまれていた。そこで江は後水尾天皇に嫁した五女和子や、2番目の夫秀勝との間に設けた、現在、関白も務めた九条忠栄の正室に納まっている完子に相談を持ちかけた。こうして選ばれたのが関白鷹司信房の娘孝子であった。孝子は江戸へ下り御台所江と対面したのち、家光の婚約者として江戸城西の丸へ入った。吉屋信子書「徳川の夫人たち」では、「五摂家鷹司の娘は、徳川家を三河の田舎武士の成り上がりと侮り、自分は天女が地に降りたかのように昂ぶりをみせた」と記している。正式な結婚はその1年8ヶ月後の寛永2年(1625)8月、家光22歳、孝子は慶長7年生まれの24歳、2歳年上の女房であった。翌寛永3年、母江が西ノ丸で没すると、家光は妻孝子を遠ざけるようになり、北の丸と西ノ丸の間の吹上御苑に中の丸御殿を建て、孝子はそこへ移り住み夫との別居生活が始まった。このため孝子はその後「中の丸」様と呼ばれるようになり、江戸城での空虚な生活が続き、京での娘時代の生活が懐かしかった。1人の男の妻への仕打ちが、1人の女性の人生を台無しにした。家光のこの仕打ちは子どもの頃、自分を疎んじた母への仕返しでもあった。家光にはまだ男の優しさ寛容さが育っていなかった。歪んだ家光の性格はしばらく続くことになる。孝子は孤独なまま延宝2年(1674)73歳の生涯を江戸城内で閉じた。徳川幕府は鷹司孝子以降も、将軍家の御台所として京の公家の姫たちを迎えているが、世継ぎを産んだ御台所は、家光を産んだ浅井江1人のみである。
<お万の方>大奥はまさに春日局の天下となった。春日局によって「御局より奥へ男出入り有るべからざる事」など、のちの大奥法度のベースとなる「壁書」なども作られていった。寛永16年(1639)父は参議六条有純、母は大垣城主戸田為治の娘、この2人の娘である梅は16歳なると伊勢内宮尼寺、慶光院に入り17代院主を継承、将軍家へ挨拶のため江戸城に参内、家光に拝謁した。すだれ越しに梅の顔を見た家光の眼は、梅から離れなかった。側に控えていた春日局は、家光の昂ぶりを見逃さなかった。衆道好みであった家光にとって、梅のボーイッシュな顔だちとスレンダーな容姿は、まさに今でいう「好み」の異性であった。梅は再び京へは戻れなかった。春日局は梅の個人的尊厳を無視して、そのまま梅を田安御殿に住まわせ、髪が生え揃うのを待って還俗させ、大奥へ入れ家光の侍妾(御手付中臈)とした。家光最愛の女性「お万の方」の誕生である。現代でいえば略奪、監禁、個人的意思の束縛である。「将軍外威伝」によれば「有髪の形となりて枕席に侍る。然れども老中より内証ありて懐妊を禁ぜし故に御子なし」と伝える。江戸幕府は京の公家の娘から子が産まれ、その子が将軍になるのを恐れたのである。春日局も「梅に子を産ませてはならぬ」それが春日局の信念であった。梅に子が産まれることによって、朝廷の勢力が増大する。それを春日局は避けたかったのである。ために春日局は梅より早く、自分が見つけた町屋生まれの部屋子の中から上様の目にとまり、子を授かることを常に願っていた。一方、家光にとって、春日局の勧めにより世継ぎを産むためにひたすら媚びてくる、美人ではあるが個性のない人形的な中臈たちは、それだけの話であった。家光は大奥で人間として人格をもち、自己の信念に忠実に生きているお万の方に、産んでくれた母江よりも、育ててくれた春日局よりも、女性としての最大の魅力を感じていた。家光は春日局がかって自分(家光)を母から離したように、今度は「お万の方」が春日局から自分を離していっていると思った。
寛永3年、徳川幕府初代御台所江がなくなると、春日局は大奥を取り仕切り、大奥の役割、職階、女中たちの身なり、髪型など大奥の基礎を確立していった。併せて大奥の意義、存在価値は将軍継嗣を生み育てることにあるとし、側室の登用に力を入れた。家光には8人の側室がおり、彼女たちからは5人の男の子が生まれたが2人は夭折してしまっていた。嫡男竹千代(4代家綱)を生んだ「お楽(蘭)の方」の父親は、下野国の農民であったとされるが、ある時お楽は浅草参詣の帰途に春日局の目にとまり、部屋子として呉服の間に務めていた。春日局の狙い通り家光の目にとまり、寛永18年(1641)長男を出産した。お楽が男子を産んだ事を喜んだのも束の間、生母お楽は産後の肥立ちが悪く、竹千代も病弱とあって控えの世継ぎを待機させるべく、家光正室中の丸殿の勧めにより「お夏の方」を家光に勧めた。お夏は後に甲府宰相となる3男長松(綱重)を産む。綱重の嫡男がのち6代家宣となる綱豊である。1番玉の輿に乗ったのが、京から伊勢慶光院の梅と一緒についてきた、慶光院に出入りしていた京の八百屋の娘お玉である。お玉も家光の目にとまり館林宰相となる4男徳松(5代綱吉)を産んだ。後に4代家綱が若くして病没した際、順序であれば次兄綱重が5代を継ぐ筈であったが、綱重は飲酒のため若くしてこの世を去っていたため、5代の座は綱吉に回ってきた。生母お玉(桂昌院)は狂喜したという。庶民の娘が身分不相応に高い家に嫁ぐ事を「玉の輿に乗る」と云う例えがあるが、この言葉はお玉が所以となっている。
春日局も家光の子に躍起になっている頃から代官町の私邸で病みつくようになっていった。しかし、春日局も人間であった。彼女はいつまでも家光の歓心を引きつけておきたかった。そこで春日局は大奥取締役である自分の後継者を、お万の方にするよう家光に願いでた。自分が推さなくとも家光ならきっとそうするであろうと推察、ならばこちらから提案して家光の歓心を買うべきだ。この老女のしたたかな計算がここでも動いた。寛永20年(1643)春日局は、家光の勧める投薬を服用せず65歳で病没した。春日局亡き後大奥の取締りを家光から任されたのがお万の方である。この年春日局の跡を継ぎ、御手付中臈から大奥総取締役となった。慶安3年(1650)家光は46歳でこの世を去った。お万は家光亡き後も落飾せず、名を「お梅の局」と改め大上臈となった。先ず大奥の作法を春日局が進めていた質実剛健な武家風な作法から、たおやかな京都公家風に改め、京風の礼儀作法を女中たちに教え込んだ。また、自分の部屋子の娘が家光の子を産んだりすると、その子の養育にも務めた。徳松などはその1人である。江戸の町の2/3が焼け野原となった「明暦の大火」では、天守閣や本丸が焼け落ちたため、小石川の無量院に家光正室本理院を連れ避難した。優しく気丈な女性であった。加えてお梅の局は京の公家出身であるにも関わらず、長年の春日局との駆け引きでその手法を勉強したのか、その性格ははっきりとして芯が強く、幕閣の反対を押し切って大奥で能を催したり、役人の不手際を直に将軍に報告するなど、かなりのやり手であった。幕閣内では「お梅殿は第2の春日殿じゃ」と恐れられたという。梅は88歳の長寿を大奥に捧げて、娘の時代仕えた仏の世界に旅立っていった。京の庵主様は現代女性に通じるものをもって生きていた。 <江戸純情派 チーム江戸> しのつか
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