第4章 家光が愛した女たち ⅰ家光vs忠長
お福(春日局)が竹千代(3代家光)に乳母となったのは26歳の時である。生母江より6歳年下、肌は浅黒いがきりっとした顔だちをしていた。江の母親は戦国一のは美女と謳われた信長の妹お市の方である。江は自分の容色に自信をもっていただけに自尊心が強く、夫秀忠に侍妾をもたせなかった。慶長9年(1624)竹千代が産まれ、その2年後に弟忠長(国松)が産まれた。竹千代は産まれた頃から病弱で、そのせいか性格も内向的であった。それに反し国松は母親の目には活発で利発にみえた。そのせいか江の感情が妙な方向に傾いていった。福が乳を飲ませて面倒を看ている、我が息子長男に愛情を感じなくなり、次男国松に母親の愛情が傾いていった。年上の女房の容色と性格の強さに頭が上がらなかった2代秀忠も、妻の感情に次第に同調していった。夫婦の態度を観てとった城内では、大奥に仕える女中たちまでもが次期将軍はと、竹千代派と国松派に分かれいった。大勢は圧倒的に国松を推す声が強かった。食膳ひとつにとっても、弟の国松の方が立派であった。これを見た四天王のひとり本多忠勝などは、怒ってその食膳を蹴飛ばしたと云う。長男を疎外し自分を可愛がってくれる両親をみて、国松は兄竹千代を馬鹿にするようになっていった。親の教育というのは子どもの性格を変える。恐ろしいものである。勝気な福がこの状況をみて黙っている訳がなかった。旅行と称して江戸を出た福は、家康のいる駿府へ向かい大奥の事情を訴えた。「良い 近いうちに下向して将軍家に会うであろう」鷹狩りと称して江戸城に着いた家康は、一同を大広間に呼び寄せ「竹千代殿かこちらへ来なさい」と上段に招いた。つれていつものように国松も一緒に上ろうとした。「国松控えろ」「竹千代殿は世継ぎの身じゃ、同列はならんぞ」戦場で鍛えた野太い声が響いた。この一喝で3代将軍は家光と決定した。江は血の気を失い唇を噛んで身を震わせた。末座の福は感動、うれし涙が止まらなかった。
家光は子どもの頃から病弱で3歳で大病を患い、25歳で疱瘡を病み、33歳になると長く病床についた。福もその都度眠れない程の心配をしたが、家光は病についている間は家康の夢ばかり見ていたと云う。そのおかげで回復したと本人は思っていた。父秀忠より祖父家康の恩を意識していたと考えられている。元和2年(1616)その敬愛する偉大な祖父家康が75歳で大往生を遂げた。同9年7月、孫家光が3代征夷大将軍を就任。翌寛永元年、忠長は駿河、遠江、甲斐55万石を領する大名、従二位権大納言となり、駿河城を居城としたため駿河大納言と称された。55万石という石高は尾張や紀伊の御三家に匹敵する。駿河に移ってからの忠長は、子どもの頃から偏愛されてきた癖が抜けず、我儘粗暴な行動がみられるようになった。兄を兄とは思わなかったため、兄弟仲も悪かった。寛永3年(1626)忠長最大の庇護者母江が54歳で亡くなってからは、その粗暴な行動は更に拡大していった。父秀忠は忠長の乱行を理由に甲斐国に蟄居させた。この時秀忠は重病であったから、兄家光の命令と考えられる。同9年、その最期の庇護者父秀忠も亡くなると、孤立無援に陥り尚も粗暴な振る舞いが増し、同10年上野国高崎城に幽閉され、ついに自刃に追い込まれていった。28歳の若さであった。墓碑は高崎の大信寺、当初は周囲に玉垣がめぐらされ、鎖が掛けられていた。忠長の自分がおかれた境遇を意地になって否定し、周りの空気が読めなかった結果であった。残された正室は竹橋御殿に住み、尼となって北の丸殿と呼ばれ、78歳の生涯を閉じた。
家光の寛永年間(1624~43)はまだ戦国時代の余習が残っていて、美童を愛する風習があった。家光にもそれが残っていた。また家光はお洒落が好きで、ある時傅役の青山忠俊が御所に出てみると、家光はその頃流行っていた吉弥風という髪型を結い、合せ鏡を使って見ていた。青山は憤慨して鏡を取り上げ庭に投げ捨ててしまった。また昼間小姓と戯れていたともいう。家光のこの歪んだ性癖は美童ばかり近づけ、若い娘を疎んじた。家光は母親との愛が薄く、乳母となった福が固苦しい性格のため、本来男が持っている若い娘への思いが育ちきれず、衆道の道を進んでいた。これは本人の性格というよりも一般的には両親であるが、家光の場合は乳幼児の頃から育てられた福の性格が、家光の人格形成に強く影響を与えていた。祖父家康は年増好み、父秀忠は江の監視が厳しく側室を置けなかった。それでも目を盗んで産まれたのが、家光、家綱に仕え善政をしいた保科正之である。春日局は自分のなした業を忘れ、どうにかして家光の男色好みの性癖を矯正、正統な徳川の世継ぎを作るべく思いをはせた。それには健康で家光が好みそうな娘を連れて来て、目に止まるようにするのが先決であると考え、あちこちから若い娘を集め自分の部屋子として育て上げその機会を待った。上臈たちもそれぞれに自分の部屋を貰い、そこへ自分の身の周りの世話をさせる少女を置いた。それが部屋子である。仕事は雑用で身分の低い町屋の娘が多かったが、何よりも公家の娘たちに比べ心身ともに健康であった。これが一番の条件であった。これらを踏まえて福は、江戸城大奥御台所である江が亡くなった今、大奥総取締役となり大奥を取り仕切り、徳川の後継を安定させるため側室たちの登用に尽力をした。家光の側室たちは8人であったとされている。「お振の方・自証院」長女千代姫は徳川三友の御簾中となっている。「お楽の方・宝樹院」福が浅草寺参詣時に目を止めた娘である。4代家綱を産んだ。「おまさの方」」次男亀松を産むが夭折。「お夏の方・順性院」3男甲府宰相綱重を産む。「お玉の方・桂昌院」5代綱吉を産む。玉の輿のいわれともなった側室である。「お万の方」は伊勢の尼寺慶光院の尼僧であった。他に「お里佐の方」「お琴の方」がいた。
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