ⅱ乳母将軍「春日局」

 天正10年(1582)6月「本能寺の変」が勃発、明智光秀家来斉藤利三の娘福はこの時4歳であった。何故光秀が信長を本能寺で襲ったのか、その原因としていくつか挙げられるが、当時、信長は四国攻略を策していた。四国の覇者長曾我部元親に嫁いでいたのは、斉藤利三の妹であった。つまり元親は利三の義理の弟にあたった。従って信長の四国攻めは利三にとって黙視出来ない事柄であった。よって光秀の本能寺襲撃は利三によって主導されたとの見方も出来る。

 その後斉藤福は幼少期、京の公家三条家で養育され、書道、歌道、香道を身につけた。また、この頃天然痘にかかりあばたが残った。成長して母方の親戚にあたる、小早川秀秋の家老稲葉正成の後妻に納まり3人の子を産んだ。しかし、夫の浮気に腹を立てその相手を殺害、3人の子を残して出奔、京へ出た。そこで慶長9年(1604)に誕生した、竹千代(家光)の乳母を募集している事を知り応募、京都所司代板倉勝重の推薦で江戸城大奥の奥へ入った。このとき福は26歳であった。家康が福をはじめて引見した時「そちは何故別れたのか?」と質問したところ「稲葉にふらちな所業がございました故」当時15人の側室を置いていた家康は思わず苦笑したという。夫の浮気をきっかけに幼い子供たちを残して家を飛び出し大奥に入った。叔父信長を光秀によって殺害された御台所浅井江と、その仇の片割れの娘である斉藤福の間には妥協の余地はなかった。江の高慢な性格と福の育ちからくる勝気な性格は相容れないものがあった。御台所江とすれば、このような仇の片割れを我が息子の乳母になどとは、到底受け入れる気持ちにはなれなかったが、夫の父家康のお声掛とあれば涙を飲む他はなかった。

 文禄4年(1595)に秀忠に嫁いだ江は、嫡男長丸を産んだが夭逝。次男竹千代(家光)は慶長9年(1604)の生まれであり、この時母江は31歳である。今でいう高年齢出産である。弟国松(忠長)は2歳違いである。母江は子どもの頃疱瘡を患ったためか、消極的性格で凡庸とみえた家光よりも、明るい性格で利発に思えた弟忠長を溺愛した。父秀忠も江の影響を受けて竹千代を疎んじるようになり、家臣たちもこれを見て、家光派、忠長派と分断されていった。家光の身近なサポーターは乳母お福1人であり、この頃から家光は両親より、福の意向を汲むようになっていった。乳母として竹千代の養育に務める一方、大奥の確立にも尽力、表向きの政治にも影響力を持つようになり、松平信綱、柳生宗矩らとともに家光を支えた「鼎の脚」の1人に数えられるようになっていった福は、この状況を憂慮して、駿河の大御所家康に現状を直訴した。家康は早速江戸城に入り、一同を集めて「長幼の序」を宣言した。20歳になった家光を第3代将軍に、後に駿河大納言と呼ばれる忠長は臣下として、これを補佐するように命じた。以降、竹千代と呼ばれる長子がいない場合はその弟、次いで御三家、御三卿が将軍職を継ぐ慣習となる。元和9年(1623)3代将軍家光が誕生、家光の消極的性格は補正されてきたが、その子供じみた行動は相変わらずであった。また、家光は将軍になっても男色好みは治らず、そうした事情で京から嫁いで来た鷹司孝子(本理院)とは仲が悪く、孝子は中之丸に住み始め別居状態になった。加えて側室も置かない、置いても相手にしないという状態が続けば、徳川幕藩体制継続の絶対的存続条件である、男子誕生が危ぶまれた。家光が異性に興味を抱いた最初の女性は、参議六条有純の娘梅16歳である。伊勢慶光院の住持に決まった梅は江戸城に参内し、家光に拝謁した。梅のボーイッシュな美顔を見た家光の表情が変わった。これを側に仕えていた福が見逃さなかった。梅をそのまま江戸城に留められ、還俗させられ側室とさせられた。封建制度専制君主の人権を無視した行為である。家光最愛の側室お万の方の誕生である。家光の正常な状態を確認し自信を持った乳母福は、家光が好みそうな健康的な若い娘を見つけ出しては、自分の部屋子として彼女たちを磨き上げ家光に勧めた。福が勧めた側室たちは、千代姫を産んだ「御振の方」、4代家綱を産んだ「お楽の方」、5代綱吉産んだ「お玉の方」、「お夏の方」などである。

 家光の乳母福が家康に直訴した頃、大奥の主人は江であった。福が大奥で権力をを握るようになるのは、家光が将軍になり西の丸から本丸に移ってからである。江は夫婦で西の丸に移ったのち、大奥では福の存在は大きくなっていった。家光が本丸に移った頃の大奥は、御台所の孝子と福のそれぞれのお付きの女中しかおらず、更に家光が衆道好みであったため、女性の数は少なかった。大奥草創期の時代である。家光は寛永6年(1629)25歳の時重い疱瘡を患った。福は必死に看病し、その全快御礼に伊勢神宮に代参した。その足で「紫衣事件」についての後水尾天皇の真意を探るため、江の五女和子が中宮となった朝廷に参内を要請した。公家たちはこの強引な参内要請に大きな不満を持った。福の幕府の威を殊更に見せつける威圧的な態度に「帝道民の塗炭に落ち候」(土御門日記)と悲憤し、天皇譲位のきっかけにもなった。それでも朝廷側は徳川家との力関係とか東福門院和子に思んばかり、無位無官では帝への拝謁は不可能であるため、「従三位の位」と「春日局」の称号を与えた。位は後に「従二位」に引き上げれ、この位は清盛正室平時子、頼朝正室北条政子と同じ位階である。春日と云う名称は足利義満の乳母の名であり、かって春日局を称した者は、公家の娘であり天皇に仕え、親王や内親王を産んだ官女たちであった。翌7年「大奥総取締役」春日局が誕生した。大奥の支配に加え表向きのことにも、また、大名家や旗本たちの養子縁組にも、次第に口を挟むようになっていった。「武蔵燭談」巻之五には諸大名の婚姻に特に干渉、諸大名の息女たちを大奥広座敷まで呼び出し、それぞれの縁組を申し渡すのを常とした。寛永5年(1628)8月、老中井上正就が目付豊島明重に西ノ丸殿中で殺される事件が起きた。これは春日局が上位として介入した縁組のもつれから発生した事件である。貞享元年に老中堀田正俊が殺害された事件、元禄14年の刃傷松の廊下事件を「江戸城三刃傷事件」と呼ぶ。こうして福は自己の権勢を伸ばすことに躍起になっていた。息子稲葉正勝を小姓として江戸城に入れ、その後小田原8万5千石の大名に押し上げたが、正勝は38歳で死亡、春日局の権勢をもってしても、人の生死は変えることは出来なかった。尚、当時家光の下、老中を勤めていた阿部忠秋、松平信綱、堀田正盛、阿部重次、久世広之などなどは、家光が竹千代時代に仕えていた近習であったため、彼らは家光同様福からさんざん薫陶を受けた者たちであった。福からみれば男の子ばかりの家の母親のようなものであった。こうした事情を踏まえ春日局は、江戸城内で乳母将軍となっていった。

 寛永元年(1624)46歳の時、将軍家光より湯島の地を拝領、300石の寄進を受け「天沢院麟祥院」を建立した。この寺は周囲がカラタチの生垣で囲まれていたので「からたち寺」とも呼ばれていた。また、この地は江戸の頃「春日殿町」と呼ばれていたが、現代の地名は文京区春日である。同3年、家光母江が死去したため、代わって春日局は大奥を取り仕切り、徳川家の後継者確保のため側室の登用に尽力した。加えて大奥の職務、職階、服装、髪型など、江戸城大奥の基礎を確立していった。同20年(1643)病がちとなった春日局は、家光が勧めた薬湯を拒み服用せず「死して後も黄泉の国より 徳川の世を見守ってまいりたい」の言葉を遺してあの世に旅立っていった。享年65歳。春日局の死去により、家光は江戸城も市井も7日間の鳴り物禁止とした。この令は歴代将軍家、徳川15代の中でも例がなかった。この令は家光が母江より、福を第2の母として慕っていた証でもあった。  <チーム江戸>


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