「百花繚乱」江戸城大奥・奥の女たち 3御台所vs大奥取締役
江戸幕府初代将軍は徳川家康である。家康には2人の正室がいた。一人目の正室は家康がまだ今川家の人質だった時代、今川一門関口氏の娘瀬名姫、のちの築山殿である。築山殿は嫡男信康、長女亀姫を産む。永禄3年「桶狭間の戦い」で義元は信長に破れた。同10年には信康と信長の娘徳姫が結婚した。その徳姫が父信長に義母築山殿が甲斐武田氏と内通していると通報、これにより事件は拡大、家康は妻築山殿と信康を処罰した。弱小大名であった家康は、家族よりも徳川家の継続を選択した。2番目の正室は朝日(旭日)姫である。天正10年(1582)「本能寺の変」で信長が横死すると、信長の家来であった秀吉が台頭してきた。家康がその秀吉と天下の覇権を狙って戦った合戦が、同12年の「小牧・長久手の戦い」である。家康は戦さでは有利に進めていたが、同盟者の信雄の離反もあり秀吉と和睦した。その和睦の証が秀吉の異父妹朝日姫の輿入れである。当時44歳になっていた朝日姫は、結婚して夫もいたが、秀吉は強引に離婚させ正室のいなかった家康と結婚させた。家康を懐柔するためである。家康には西郷局や茶阿局など才色兼備な側室がいたため、朝日姫との仲は疎遠であった。2年後朝日姫は母大政所の病気見舞いを理由に実家に帰った。そのまま駿河には戻らず天正18年(1590)小田原北条氏が滅亡、家康が江戸に入府した年に聚楽第で病死した。家康が慶長5年(1600)の「関ケ原の戦い」を経て征夷大将軍に補任されたのが、同8年2月の事であるから、朝日姫は家康の正室ではあったが、家康はその頃征夷大将軍ではなかったため、徳川将軍家の御台所ではなかった。
<浅井江>宮中の女房の詰所であった清涼殿の一室を御台盤所という。この御台盤所が転じて「御台所」という言葉が生まれ、大臣、大将、将軍などの妻の敬称となっていった。古代中国では「天子は南面す」とされ、北側は服従の方向にあった。秀吉糟糠の妻ねねは「北政所」と呼ばれ、摂政、関白の正室の敬称である。徳川(浅井)江は文禄4年(1595)徳川秀忠の嫁し、その秀忠は慶長10年(1605)4月16日、父家康から将軍職を譲位され、秀忠正室江が実質的に徳川歴代将軍家の初代御台所、トップレディとなった。「江」と云う名称は、江が生まれた近江からとも、生涯住み続けた江戸の地名から、夫秀忠がつけたと云われる。江は天正元年(1573)浅井長政とお市の方の三女として生まれた。この年は「姉川の戦い」から続いて、叔父信長が父長政の小谷城を落城させた年である。江は0歳にして落城の経験をした。同10年「本能寺の変」、信長は明智光秀にあっけなく暗殺された。江は父長政に続いて、叔父信長という強い後ろ盾を失い、浅井三姉妹は戦国の世に放り出された。母お市の方は台頭してきた秀吉を嫌って、柴田勝家と再婚した。しかし、2度目の父は優しかった母を伴って越前北ノ庄で自害した。江にとって2度目の落城である。浅井三姉妹は産みの母も失い、天涯孤独な姉妹となってしまった。この時江は10歳、次姉初14歳、長姉茶々は17歳であり、母お市の方に似て美形であった。三姉妹を引き取った秀吉は、戦略的な利用価値と男の目線の両面から三姉妹を観察した。名門女子好みの秀吉は茶々を自分の側室とし、初を近江の京極高次に嫁がせ、江12歳を大野城主(愛知県常滑市)佐治一成16歳に嫁がさせた。その1番目の夫一成は「小牧・長久手の戦い」で秀吉と敵対、江は煽りを喰って1年で呼び戻され、今でいう出戻り、バツイチとなった。江14歳の時の2度目の夫は秀吉の甥豊臣秀勝18歳であったが、折からの「文禄・慶長の役」で朝鮮半島に出兵し病死してしまう。この時の2人の娘が完子(さだこ)である。完子は長じて五摂家のひとつ九条家に嫁ぎ、子孫は現皇室に繋がっていく。江3度目の夫は徳川秀忠17歳であった。文禄4年(1595)京伏見城で婚礼の儀が開かれた。秀吉の養女として嫁いだ江は23歳の大年増、典型的な姉さん女房であり、かなりのやきもちやきであった。秀吉としては朝日姫が亡くなった今、将来秀頼の後ろ盾として徳川家を取り込んでおく必要があった。秀吉はそれでも心配であったとみえ、更に江が産んだ千姫を秀頼の正室とするよう遺言して、この世に未練を遺して死んでいった。
2人の結婚は、織田、豊臣系の大名たちと徳川家とを繋ぐ役目を、江が担うと云う意味があり、ひいては皇室や公家とも結びつける役目もあった。逆な見方をすると、秀忠は江がいなくなると全ての関係を失う立場にいた。浅井江と結婚することにより、子孫を産み育て、徳川の幕藩体制の基礎を築いていった。天和2年(1616)「大坂冬の陣・夏の陣」を見定め、徳川の将来を確かめた家康は75歳の生涯を全うした。本丸に入った2人は草創期の徳川幕府を築き上げていかねばならなかったが、この2人政略結婚の割には夫婦仲は良く、三男五女に恵まれた。しかしながら8人の子供たちの生年月日を正確に割り出していくと、その出産日が本来哺乳類である人間が、子を出産するに必要な10ヶ月に満たない場合がある。つまり2人の間に生まれてきたという8人の子供たちは、全て江が産んだ子ではないということになる。ただ一人歴史上はっきりと江が産んだ子ではないと証明された人間がいる。秀忠が年上女房江の目を盗んで、不倫して産ませた子保科正之である。この正之が会津藩祖となり、3代家光、4代家綱に仕え名宰相として徳川幕府を仕切っていく。こうして系図や系譜といった類の資料には、必ずしも真実が記されているとは限らない。逆説的にいうならば、歴史を調べていく上では資料を批判的に見る必要があるということになる。
江の長女千姫は幼くして秀頼と政略結婚させられ「大坂夏の陣」で夫と死別、2度目の夫も若くして病死、家庭には恵まれなかった。髪を下して天樹院を名乗り、弟家光、甥家綱の時代大奥には入らず、竹橋御殿に住みながら大奥最高顧問として働いた。祖母(お市の方)の兄信長を討った、明智の家来の娘福がいる大奥には、入る気にはなれなかった。次女子々(ねね)姫も家康の命により、3歳で前田利常と政略結婚させられ15歳で女児を出産、子々とはその後母娘の再会は果たせず、24歳で金沢で没してしまう。娘の早すぎる死であった。三女勝姫は、家康次男結城秀康の嫡男松平忠直に嫁いだ。忠直自身は武勇に勝れ関ヶ原や大坂の陣では多大な功績をあげたが、その報奨を巡り家康の配慮的ミスにより失脚させられてしまう。こうして家康には全般的に配慮を配っているようにみえたが、自分のお気に入りの側室の子供たちは栄転させ、そうではない側には配慮を欠き不公平さを示し、その人たちを不幸にさせると云うバランス感覚に欠けた処もあった。慶長4年江は7歳になる千姫を秀頼との婚礼のため上洛した。その際に身重であった江が伏見城で産み落としたのが四女初姫である。初姫は姉初が夫京極高次との間に子が生まれていなかったため、そのまま初夫婦の養女となった。五女和子(まさこ)は108代後水尾天皇へ入内、109代明正天皇(女帝)の母となり、以後和子は東福門院、国母とも称されたが、夫後水尾天皇の女性問題では頭を痛めた。長男家光の乳母を務めたのが、本能寺を襲った光秀家来斉藤利三の娘、福である。家光や大奥の運営を巡って、御台所江との確執が家康、秀忠親子、弟忠長も加わりくり広げられていく。いよいよ大奥取締役春日局の登場である。<チーム江戸>
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