④大奥の構造と歳時記

 火災の度に焼失、再建を繰り返していた大奥は、3代家光の時代、本丸御殿の建築総面積が、11373坪(37530㎡)であったのに対し、大奥のそれは6318坪(東京ドーム2個分)と、本丸の半分以上を占有、部屋数約600、就労人口600~700人、総経費160万両(別説有)を計上していた。因みに、西の丸は文禄元年(1592)家康が将軍の隠居所として、築いたものであるが、その後は将軍の世子や、大御所の屋敷となった。二の丸には将軍の生母や、御腹様となった側室たちが住んでいた。また、三の丸は、5代綱吉が幼少期に住み育った場所であるが、のち、生母桂昌院が移り住んだ為、桂昌院は三の丸様と呼ばれていた。その綱吉の時代までは、老女や側室の居間が、御殿向に点在していたが、6代家宣以降、側室は女中として、長局に居住するようになる。これにより、御台所と側室の立場の違いは明確化され、9代家重の時代に、御鈴廊下が2本となった。

 <大奥の構造>は、みっつの建物からなる。先ず、将軍夫婦の私邸、居間や寝所、仏間などが置かれ、御対面所、呉服の間など奥女中たちの詰所ともなっていた ①「御殿向」。将軍の居間と正室である御台所の居間は、長さ40間の廊下で結ばれていた。今で云う「家庭内別居」のはしりであろうか。御殿向の東には、大奥の庶務や警護を担当する役人たち(男子)の詰所 ②「広敷向」が建てられていた。広敷向は大奥の玄関口で、③「長局向」との間は、「七ッ口」によって仕切られ、七ッ時(午後4時)には閉められた。ここでの出入りは、通行許可証「御門札」を見せて通過、御末などの女中が買い物などをする際、また、宿下がりの際などは、七ッ口を使って出入りをした。また、御門札を持った魚屋、八百屋、小間物屋たちなども、ここまでやってきて商売をしていた。

 大奥女中たちが1日奉公、そののちのやすらぎの居住棟が ③「長局(ながつぼね)向」である。御殿向の北側、天守台の東側に長い廊下を挟んで、両側に多数の部屋が並ぶ、総二階建ての構造になっていた。一の側から四の側の四棟からなり、身分の高い順から部屋が並び、一の側には、老女、御客会釈、中臈たちの部屋になっており、老女たちは個室、御祐筆頭以下は3~5人の相部屋であった。中臈たちも、仮に将軍のお手がついても、老女の監督が必要な為、相部屋で将軍の子を産み、お腹さまになった際に、部屋が与えられ、名の下に「方」がつき、「お部屋様」となった。3代家光の時代には、家光最愛の側室、「お万の方」が長局一の側の右角、左角のは乳母「春日局」、次の間は「お振りの方」の部屋になっていた。大奥は長局一から四棟の、さらにその東側に、御半下(御末)の部屋の一から三の横側が設けられていた。長局の1番の早起き者は御末、朝七ッ(午前4時)起き、日本橋からの旅人と同時刻に働きだし、まだ寝ている上役を起こない様に、羽根の箒で音をたてない様に掃き、それが終わると六ッに蓋が開く、井戸から水を汲み、2人1組で持ち場の各部屋へ、廊下に水をこぼさない様に運び込んだ。大奥で奉公し、箔をつけるには、大変な努力と労力を必要とした。親元でお天道さまが、高く上がるまで寝ていた日々は、夢のまた夢であった。

 弘化年間(1844~48)長局の部屋数は、一の側12部屋は老女たち、二の側21、三の側27部屋は御目見得以上の女中たちが使用した。御目見得以下の四の側19、更に各側の横側部屋と東局など御末の大部屋などを加えると、部屋数は100余りとなり、大奥は大世帯であった。上臈、御年寄など、老女たちの間取りは、左右に5帖ほどの化粧部屋があり、次が8帖の仏間、書斉、応接間を兼ねた上の間、二の間と続き、さらに主人の居間である次の間が2間あった。更に次に4帖程の控の間が2間あって、8帖ほどの渡り(間)廊下、多聞ら部屋方の詰所へと続いていた。廊下と多聞の脇の2ヶ所には、2階へ上がる階段があった。多聞とは炊事を担当する女中たちで、多聞部屋の隣は炊事場、渡り廊下の隣には、主人用の湯殿とトイレ、廊下を隔てて、部屋方の湯殿とトイレと物置きがあった。

 <歳時記>暮から年始にかけ大奥は忙しい。12月13日は「煤払い」、薪を燃料としていた時代、金はいつものように貯まらなくとも、煤は例年どうり貯まってくれた。ここも御末たちの活躍場所であった。箒にハタキ、雑巾を握って体力にモノをいわせ、自分たちの存在価値を高めた。この行事が庶民の間にも伝わり、彼らのストレス解消の場ともなった。明けて1月11日(節分の夜との説も有る)は大奥で、前年度召抱えた新参の女中たちや、仲居、御末たちの裸踊りの行事が行われた。これは何時の年か、抱えた者のなかに、文身(彫物)をした者がいた事から、裸踊りに事よせて身体検査をかねた、職場の交遊会となった。この日は夕食が済んでから詰所に行き、男性対策に隙間を目隠しし、着物を脱いで湯巻だけになり、御幣を先頭に、杓子など日常雑貨を手に握り「新参舞を見しゃいな 見しゃいな」と、先輩たちの叩く、薬缶や桶の音頭に合せ、9尺×3間の囲炉裏の回りを踊りだす、一大イベントである。 最初のうちは恥ずかしいが、「皆なが裸なら恥ずかしくはない」という寸法で、着ているほうが恥ずかしくなる程の、盛り上がりとなってくるから、人間の心理というものは、不思議なものである。先輩たちも踊りに加わって、得意の余興を披露、普段は上下の厳しい大奥では見られない、和やかな新春の宴となっていった。これには大奥の主人御台所も透見、酒や料理を一同に振舞ったという。また、門限に遅れ高遠に幽閉された、大奥取締役、江(絵)島も、このイベントに勿論参加、自らも湯巻姿になって「新参舞」を踊ったという。庶民派江島が、隙間、笑顔を見せた夜であった。<江戸純情派 チーム江戸>

江戸純情派「チーム江戸」

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