「江戸城大奥・奥の女たち」③
幕府から給金を支給されている女中たちを、大奥女中という。他に、将軍の娘の嫁ぎ先や、息子の養子先についていった女中たちも、これに含まれた。基本的には、大奥には将軍付きと御台所付きとがおり、役職、権威とも将軍付きの方が格上で、特定の主人をもたない、広く大奥の業務をこなす女中たちを「詰」と呼び、他に高級女中たちが、自分の給金で雇用した、部屋子(又女中)たちがいた。大奥を仕切った女中たちの役職は、時代によって異なるが、おおまかには将軍の御目見得以上、御目見得以下の役職の構成になっていた。御目見得以上の主な役職を上位からあげてみると
「上臈御年寄」と「御年寄」7人は「老女」とも呼ばれ、本人たちの年齢とは関係のない役職名である。上臈3人は、奥女中の中で最高の格式をもち、生涯奉公の職であり、終身異性関係をもたないと誓紙をだして奉公した。大奥の主人「御台所」の輿入れと共に京からついてきた公家の娘たちが多く、茶道、挿花、香合せなどの催しものなどがある場合は相談役となった。名前はその生家の苗字をとって、飛鳥井、姉小路などと呼ぶことが多かった。大奥の上級女中たちの名前は、江(絵)島、春日、音羽など、平仮名で書いて三文字を最高とした。幕末期において、滝山などのように四文字であっても、「三字名」と称した。また、万、愛などニ字名は、御側に仕える御中臈、御祐筆、御次たちにつけられた名に多い。総じて、御三の間以上の者は御年寄から、御末のような下女の場合は、その役職の頭から、御広座敷で「御宛行書」という、給金の目録とともに、奉公に使う名前をいい渡され、これを「御名下され」といって、本名では勤めなかった。
「御年寄」7人は、大奥内での実質的最高権力者であり、定信に云わせると、表の老中に匹敵する役職であると、本人たちは信じて疑わなかったし、何時の世にも女性たちは、社会的地位を高くおく才智にはたけていた。大奥での出世は「一引き、ニ運、三に女」といわれ、器量もさることながら、年寄りに引きたてて貰うことが、最速であった。御年寄は毎日詰所に端坐、煙管を吹かしながら、御台所の配膳、上野寛永寺などへの代参など、大奥全てを総轄、指揮した、大奥第一の実力者である。彼女たちは、御三家、御三卿の夫人たちが来訪しても、余り丁寧な挨拶はしなかったと云われる。それ程自尊心が強かったのである。年寄たちの給金を「御禄」という。主に切米(基本給)50石、合力金(衣装代60両)、10人扶持(部屋子の給料)、他に、湯之木(風呂用の薪)、五菜銀(味噌、醤油を買う為の銀)、油、炭700俵、薪36把や、黄金6枚が支給された。更に長年奉公すると、現在の年金制度と同様、奉公している間に拝領地(町屋敷)を頂き、1両で1年分の米1石が賄えた時代、親子3~4人九尺二間の長屋生活が年間15両ほどで賄えた江戸中期、拝領地が日本橋地区などでは、8~9両の地代収入を得ることが出来た。また、ここへ休息と称して、宿下がりをすることもできた。現代でも残る、春日、音羽、初台などの地名はその名残である。人件費など大奥の経費は、勘定所が管理、必要品購入代金はここにに伝えられたが、寛文10年(1670)「倹約の事かねて申しす通り、かたく相守り 云々」と「女中法度」に定められたが、次第に空文化し、大奥の予算は膨らむ一方であった。大奥の財政に口を挟みたくない、表の体質が出来上がっていたため、年々予算は膨らみ、幕府財政の3~8%を占めていたとされる。年間20万両前後、文久3年(1862)の和宮降嫁の年には、4~5万両が超過したが、流石に幕府は大奥からの圧力に抗し、緊縮財政に努め、慶応2年(1866)には17万両にまで縮小している。
「中臈」は、将軍、御台所の身辺世話役で、家柄や器量のよい者から選ばれた。原則将軍付き中臈が、側室(侍妾)候補で定員はなく、11代家斉のように21人と、将軍の希望、要望次第であったため、これに関する予算も、脹らむ一方であった。また、御台所付きの中臈の中から、将軍が要望する場合は、御台所の許しを必要とした。御台所の権威を尊重したのである。彼女たちの立場は、ただ単に将軍の側室であれば、並の従業員と同じであるが、子を産めば「御腹様」となり一部屋を与えられ、その子が男の子で世継ともなれば、玉の輿で将軍生母となり、権勢を揮う事ができ、老後の生活も安泰であったが、子が出来無かった側室たちは、高年齢出産のリスクを避けるため、30歳で役職を辞退(御褥御免、滑り)、世代代わり後は、「桜田御用屋敷」に移され、亡き将軍を弔いに一生を捧げた。本質は大奥の秘密保持のためである。ここにも、一人の男の立場を優先した、女性蔑視の世界があった。 もう、ひとつの女性蔑視の世界が「御添寝役制度」である。これは5代綱吉の時代、吉保の側室(元々は綱吉)染子を呼んだ際、染子が綱吉に100万石の御墨付きをねだり、綱吉がそれを承知したと云う事例を防ぐために、汚職、腐敗予防策として出来あがった制度である。この他、御目見得以上には、大奥の機能を実質的に運営していた、御客会釈、御錠口、表使、御次、祐筆、呉服、御切手、広座敷詰たちの役職があった。
御目見得以下の役職には、御三之間、御末、使番、火の番、御中居、御犬子供たちがあった。「御三之間」は大奥の掃除、湯水の補給などを担当、所謂、現代でも一般家庭での、炊事、洗濯、掃除などを「おさんどん」ともいうが、この言葉は「御三」が語源である。「御中居」は、炊事を担当、献立一切を受け持ち、「御末」は「御半下」と呼ばれる、所謂下女たちを指し、大奥の雑用一切を担当した。彼女たちは大奥の雑用を支え、これに青春を捧げた。2~3年もすると、親の病気との報せに宿下がりを許され、その頃には良縁が用意されており、箔をつけた娘たちは、その神輿に乗るだけであった。その式には、元気な満面笑顔の両親の姿があった。人生の「玉の輿」に乗った彼女たちは、「オカミさん」と呼ばれ、江戸特有の女性上位の生活、所謂「かかぁ天下」の生活を満喫していったのである。
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