「江戸城大奥・奥の女たち」②
中国後宮「佳麗三千人」に倣って、大奥三千人という言葉がある。これは大奥に沢山の女たちが、生活していたという表現に過ぎない。実際は大奥の女中は400人前後、この他に老女などが、個人的に20人程雇っていた、部屋子(また者、部屋方)という使用人を含めても、700人から800人前後であった。(14代家茂の時代)部屋子と云うのは、上級女中が個人的に給金を払って雇った者で、将軍や御台所に奉公する奥女中ではない。この為、何時でも親の病気(建前)と称して、寿退社(城)ができた。
江戸の娘たちにとって、大奥に勤めるという事は最大の夢であった。幕府側からの一般公募はなかったが、原則として旗本や御家人の娘たちから選ばれた。一方、裕福な商人や農民の娘たちは、7歳頃から読み書きや芸事を習い、幕臣に仮親になってもらうなど、伝手を頼り、金品を使って備えた。15~18歳頃になり、書類選考、面接を経て、御目見得以下の女中や下女となって、大奥入りを果たした。魚心は大奥入りで行儀作法を身につけ、箔をつけて「玉の輿」を狙ったのである。御目見得以下の女中たちにとって、京から下向した大奥の御年寄たちに仕え、学ぶことは、当時としては、最高の教育を受けたと云う事になった。大奥の行儀作法が、厳しくなっていったのは、それまで武家風で粗野であった春日局の死後、尼僧から3代家光の側室となった、六条家出身のお万の方(永光院)が、春日局の跡を継ぎ、京風の礼儀作法を、女中たちに仕込んだ結果である。因みに、玉の輿とは、京の八百屋の娘から、家光の側室となり、鍋松(5代綱吉)を生み、将軍生母として権勢を揮った、桂昌院(お玉)の経歴に由来する。
奥女中たちの採用は、大奥で奉公している女性、或いはOBの紹介で採用された。従って採否は人脈が何よりもモノをいった。イチに「引き」、ニに「運」、サンに「器量」という事になる。大奥は、上級女中になれば一生奉公、江戸城から出ることは出来ず、行動も極端に制限された。それでも娘たちが、大奥勤めを望んだのは、武士階級において、毎年インフレによる物価高、それに対し固定された御先祖様からの俸給、こうしたジレンマ、家庭の事情があげられる。これらの事情を踏まえ、大奥で懸命に働き、出世を狙い、地位も上げ収入も増やしていった。ポスト(御客会釈や表使、奥祐筆など)によって、蓄財も可能となり、実家をサポート出来たからである。こうした金銭的要因の他に、江戸の女たちが「大奥」を自分たちの「女の園」と考えた大事な事由が他にもある。寛文10年(1670)「女中法度」に先行して決められた、元和4年(1618)の「奥方法度」は、男女が大奥に出入りする際の手続きを決めたものであるが、女中たちに向けたものとしてより、広屋敷役人(男)にむけての法度であった。しかしその実態は、男子禁制といえるものではなかった。特に年中行事や普請、掃除、病気の診断、火事や地震などの災害時には、男が大奥に入る事は避けられなかった。しかし「女中法度」が制定される以前の大奥に、江戸の女たちが求めたものは、自らの身の保全のため、自らの意思で「男の排除」をした。閉鎖的な女の園的空間を、そこに求めたのである。その意思決定の第一は、戦国時代からの、いやそれ以前から続いてきた、男たちからの暴力(violence)や、男たちから一方的に利用される事への逃避(escape)であった。秀吉の刀狩りによって、刀の帯同は、武士の身分的特権として定着していくが、それは江戸時代も暫くのことで、初期においては「大奥」とは、女たちの逃処、救済の場所のひとつと考えられていた。
鎌倉東慶寺や上野国満徳寺に、かけ込んだ女たちが、その契約が成立すれば、ある期間寺に禁足され、禁欲生活を強いられたように、大奥に1度入った女たちは、その代償に男からの暴力、身勝手な一方的利用から、自己の身を護る権利を与えられたのである。ここに女たちから見た「大奥の存在意義」があった。大奥が単に、男たちからみれば、幕府延命(世継)のための、女の園と考えられがちであるが、男を大奥に入れない男子禁制よりも、「女たちを護る為に、女たちを外へ出さない」閉鎖性にこそ、女たちからみた、大奥成立の意義があった。次回 大奥職制につづく、
「江戸純情派 チーム江戸」
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