大奥の女たち ①大奥誕生 ㋺

 長禄元年(1457)道灌が開いた江戸城に、天正18年(1590)家康入る。江戸市街の構築と併行して、関が原の戦いに勝利、慶長8年(1603)政権を担うと、「天下普請」により江戸城を ①本丸、二の丸、三の丸 ②西丸(紅葉山)③北の丸 ④吹上の4区域に分け、増築していった。結果、江戸城の外郭は南北約1里、東西約1里半、内郭は周囲約2里、東西約21町、南北約17町(1町≒109m)に及ぶ、日本最大の城となった。元和元年(1615)「大坂夏の陣」で、豊臣家が滅びると、天下普請は更に本格化していき、慶長の天守閣(家康)に続き、元和(秀忠)、寛永(家光)と天守閣が完成していった。

 本丸御殿は、表、中奥、大奥に区分され、表と中奥はひと続き御殿であったが、大奥は銅塀で仕切られた独立の御殿であり、表、中奥と大奥を繋いでいたのが「御鈴廊下」である。大奥への出入りが可能な唯一の男性、将軍が出入りの際、鈴を鳴らして知らせ、御鍵口を開けた事から、この名称がついた。清朝北京宮城では、乾清門がこれにあたり、宦官がこれより外へ、一般官僚がこれより内へ入る事が禁じられた。紅葉山には、元和3年、東照宮がおかれ、武器庫や書物蔵、いわゆる紅葉山文庫も置かれた。吹上は江戸初期、城を西側からの襲撃に備えるため、御三家を始め親藩、譜代などの有力大名たちの屋敷地であったが、明暦大火(明暦3年=1657)後、延焼防止の観点から郭外に撤去、約13万坪に及ぶ広大な庭園が造られ、現在にまで続いている。皇居吹上御苑である。

 家康の時代、「表」は、政治を行う場で。「奥」は、城主や家族が生活する場所であり、その境界はなかった。元和4年(1618)2代秀忠が「大奥(奥方)法度」を壁書で制定、同9年「御台所法度」制定、以後、本丸は幕府政庁の「表」、将軍が政務を執る「中奥」、将軍の私邸となる「大奥」に、区分され、御台所、子女、側室、奥女中たちが生活していたのが大奥である。壁書とは、主に室町t時代、命令、布告または掟などを、板や紙に書いて壁に貼り付けた掲示物をいう。「大奥」は狭義には、本丸大奥のみを指したが、広義には世継夫妻や大御所夫妻が生活していた西丸の大奥を含み、また、大名家でも家によって、大奥と呼んでいる家もあった。3代家光の時代、乳母春日局により、組織的な整備がなされ、現代知られている大奥の形式に整えられていったが、呼称は「大奥」とは云わず、単に「奥」とか「奥方」といった呼び方が用いられていた。4代家綱の代になって、大奥という呼称が登場、5代綱吉の代になり定着していった。

 大奥及び奥女中に対する規制の変化は、壁書以降、将軍の代替わりごとに確認され、改訂されている。大奥法度ではその事柄は、主に大奥の出入りに関した事であり、男性の出入り禁止が決められ、その場所は大奥全体ではなく、女中たちの宿舎である長局より奥であった。5年後の御台所法度では男性の対象に、医師や大名の使者が加わる。寛文10年(1670)女中たちが守るべき「女中法度」が、老中と老女の連署で制定される。享保6年(1721)の法度では、女中たちの文通、宿下がり、加えて贅沢に対する規制も加えられていき、職制の整備も進み、大奥は制度的に完成をみることになる。この様に、大奥は次第に、老中たちの支配下におかれ、従属化が始ったようにみられるが、江戸城大奥の女中たちは、表=幕府政治に対し常に、隠然たる勢力をもっていた。その証しとして、「享保の改革」を推し進めた8代吉宗は、6代家宣御台所天英院の推薦を得て就任、天英院にも月光院にも進物を惜しまなかった。また、松平定信の「寛政改革」や、水野忠邦の「天保改革」などの失敗の原因として、大奥勢力の反感を買った事などをあげることが出来る。慶応4年(1868)4月11日、江戸城無血開城。13代家定御台所天璋院は一橋邸へ、14代家茂御台所静寬宮は清水邸に退去、2代秀忠御台所崇源院(江)以来の女の園、「大奥」は終焉をむかえた。さて、この物云う勢力を常に握っていた、大奥の女中たちの考え方、組織、生活などはどの様なものであったのであろうか? ②「大奥の奥の女中たち」で、御紹介していく。

 

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