第2章「江戸城大奥・奥の女たち」①大奥誕生
「国破山河在 城春草木深 感時花濺涙 恨別鳥驚心
烽火連三月 家書抵萬金 白頭掻更短 渾欲不勝簪」
中国唐の詩人、杜甫「春望」である。755年(日本ではこの頃,正倉院宝庫を建立)安禄山の反乱によって、杜甫は軟禁された。国と自分の身を憂いて、その頃詠んだ詩である。現代においては、第2次大戦で敗れ、戦場から還り、焼土と化した故郷に立った、多くの日本人たちがこの句を実感した。また、安禄山の乱(755~63)から50年後に、同じく唐の詩人白楽天は「長恨歌」で、唐の皇帝玄宗とその愛妾揚貴妃の悲劇を詠んだ。息子に嫁いできた楊氏を略奪し、我がものとした皇帝(55歳)は、白楽天が「廻眸一笑生百媚 六宮粉黛無顔色」と詠んだ楊貴妃(21歳)を溺愛、彼女の歓心を買う為に、装飾品などを贈り、毎夜宴会を開き、彼女の縁者たちを引きたてた。結果、皇帝に諂う奸臣ばかりが集まり、政治は腐敗した。安禄山の乱は起るべくして起こった。シルクロード天山回廊の交易路として、人口100万を誇った長安は、その後以前の興隆を見せることなく、約150年後の907年、(日本においてはこの頃から延喜式の編集開始)唐は滅亡する。白楽天が「後宮佳麗三千人」と詠んだ「後宮」は、宮廷内の天子が家庭生活を営む場所であり、また、皇帝や王などの后妃が生活する場所であった為、后妃の事自体を後宮と云う事もある。イスラム圏ではハーレムと呼ぶ。中国天子の後宮は外朝(江戸城では表、中)と内延(大奥)とに区別され、唐代の制度においての後宮は、内宮など三部門で構成されていた。内宮とは妃妾の事で、貴妃、四夫人、九嬪、二十七世婦の階級があった。中国では、古来「一夫多妻制」で、妻妾の数は身分の高い者ほど多い事が、儒教でも公認されており、妻妾を多くするのは、継嗣を得るのを目的としたのである。
一方、キリスト教圏であるヨーロッパ諸国では、側室制度は許されなかった為、各国の宮廷は近世に公妾制度を採用した。Royal mistress(王の愛人)=寵姫は、単なる王の個人的愛人としてでなく、社交界にも出席、ルイ15世の愛人ポンパドウール夫人の様に、重要な延臣として、政治にも参画した。通常、寵愛を受けた国王が死去すると、年金が支給され余生を送る。稀に殺されたり、再婚する者もいた。また、産まれた子供たち(非嫡出子)には、江戸大奥のように相続権はなかった。ヨーロッパ諸国においては、例外を除いて国王と公妾の間に産まれた子が、王位を継承する事はなく、男子ならば爵位を与えて家臣に、女子ならば良家に嫁がせた。江戸徳川の時代においては、家康と江が産んだ家光以外は、非嫡出子の将軍である。
我国日本においては、「大宝律令」によって、後宮官員令が定められ、後宮十ニ司を配置、平安京内裏には七殿五舍(大奥)が設置された。後宮は一般的には男子禁制というイメージがあるが、源氏物語や枕草子などでは、家族や親しい人間が出入りしていたように描写されている。皇后を始め、中宮(本来は皇后の別称で後に複数の皇后がたてられた際には、2番目以後の者を指す)、女御、更衣、御息所、典侍などの官位がおかれ、日本の内裏では、必ずしも男子禁制ではなかった。しかし、平安末期から鎌倉に入り、次第に強化され、江戸時代に入り大奥は、一人の将軍を除いて完全に男子禁制の社会となった。その社会においては、中国後宮では、宦官が総務を担ったが、江戸城大奥においては、年寄と呼ばれる女官たちが、江戸城無血開城まで、大奥を仕切り、秩序を維持していった。
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