「家康を支えた女たち」 3側室たち ②

 西郷局が没した後、実質的に家康の妻の立場に置かれていたのは、お亀の方(相応院、九男義直)、お万の方(養珠院、十男頼宣、十一男頼房)、お梶の方(英勝院、五女市姫)の三人である。この三人は「女中三人衆」と呼ばれていた。他に家康の側室たちとその子たちは、以下の通リである。長勝院(お万の方、次男結城秀康)、西郡局(次女督姫)、お竹の方(三女振姫)、下山殿(五男武田信吉)、茶阿局(六男松平忠輝、七男松千代)、お久の方(四女桜姫)。

 家康には二人のお万の方がいた。「小督(こごう)局(長勝院)」と「養珠院」である。小督局は築山殿の侍女を務めていた頃、家康の目にとまり、天正元年(1573)27歳で懐妊、於義丸(結城秀康)を生む。これを知った本妻は嫉妬に狂い、妊娠していたお万を裸にして、浜松城内の樹に縛り付け、一晩放置したという。しかし、築山殿は当時岡崎城にいたので、この話はデマということのなるが、この話が出るほど、築山殿は嫉妬深かったということになる。於義丸は11歳の時、「小牧長久手の戦」による和議の結果、旭日姫との人質交換のため、秀吉の人質となり、羽柴秀康を名乗る。17歳になると結城晴朝の養子にだされ、結城姓を名乗る。慶長5年(1600)「関ヶ原戦い」では、豊臣家の人質であった事から、参戦を認められず、戦後、越前福井68万石の藩祖となるが34歳で病没、毒殺説も流れた。母、お万の方は息子と共に越前へ赴き、息子の死後も越前で生活、永眠。秀康は家康の次男(長男信康は自害)であったが、将軍になれなかったのには、母、万が武士の出仕ではなかったからだとされている。母の家柄にこだわって、男の責任を放棄、長幼のルールを無視した家康であったが、孫に対しては逆にルールのこだわりをみせた。どうした家康。

 もう一人の「お万の方(養珠院)」は、通説では小田原北条の遺臣正木頼忠が、小田原にいた頃、二人の男の子と女の子(万)を設け、その後離婚した為、万は蔭山氏の養女となった。万が17歳の時、狩りに来ていた家康の目にとまり江戸城に入る。この時家康54歳。朝鮮の役の頃の、慶長7年(1602)万26歳、家康61歳の時、十男長福丸・頼宜(紀伊徳川藩祖)、翌8年十一男鶴千代・頼房(水戸徳川藩祖)を生む。お亀が生んだ義直(尾張藩祖)と、お万が生んだ二人の子が御三家となり、九、十子は将軍の継嗣、十一子は副将軍と定められた。伊豆市の吉奈温泉は、天和年間(1681~83)万が入浴し、子宝を授かったといわれ「子宝の湯」として評判を呼んだ。万は小田原で生まれ伊豆で育ったといわれるが、上総勝浦には「お万布さらし」の伝説が残る。秀吉の「小田原征伐」の際に、勝浦も攻められて落城、万14歳の時である。万は母と幼い弟を連れて城から脱出、八幡岬の崖に白い布を垂らして海に降り、小舟で館山へ逃れたという。勝浦城は大永元年(1521)安房里見氏の北上を抑えるため、真理谷氏(木更津城主)が支城として、八幡岬の突端に築いた水軍の城である。ここから太平洋が一望でき、お万の像が建つ。

 お万をめぐるもうひとつのエピソードは、養女に入った陰山氏が、熱心な日蓮宗であった為、万も日蓮宗に帰依、浄土宗であった家康と一時対峙した。死を覚悟して抗議、家康の方が慌てて撤回するという一幕もあった。家康死後、養珠院を号し、身延山で法華経一万部読誦の大法要催し、満願の日七面山に登山、七面山女人踏み分けの祖となり、女人成仏を実践、家康没後37年後の承応2年(1653)江戸紀州藩邸で、子頼宜に見守られながら永眠、77歳。池上本門寺に葬られる。また、和歌山市和歌浦には養珠寺が建ち、平成16年には、家康三十三回忌を記念して造られた、和歌山市南海禅院から、お万の方の遺髪が発見されている。江戸では生前、お万の方が立ち寄ったという養珠院通リが、八重洲通リの北側にあり、江戸城に向いてお万稲荷が祀られている。また、堀江町入堀(東堀留川)西側には、お万の方の御化粧料として、お万河岸(多葉粉河岸)があった。

「お梶の方(英勝院)」名を八、または梶といい、実家は太田道灌の一族で、その娘である。梶は家康より36歳年下で、お万の方(養樹院)同様、家康の側室としては珍しく年若で、後家でもなかった。その若さと才気と美貌が、家康を虜にした。五女市姫を生んだが、娘が早世したので、家康は結城秀康の次男虎松(忠昌)を養子とし、また、頼房の准母とした。梶は子には恵まれなかったが、家康の寵愛の深い女性であった。

「おたあジュリア」家康の側室候補に、片仮名の女性がいた。文禄元年(1592)朝鮮の役で出兵していた、キリシタン大名小西行長は、親と離れ戦場を一人さまよっていた、5歳の少女をを保護、宇土城(熊本県宇土市)に連れ帰った。行長夫妻は「おたあ」と名づけ、洗礼を受けさせた。洗礼名は「ジュリア」という。慶長5年(1600)西軍についた行長は、戦いに破れ、三成らと共に六条河原で斬首された。家康はおたあを伏見城に呼び、阿茶局に仕えさせた。おたあ10代中場の頃である。慶長11年(1606)、家康に伴われ江戸城に入り、日本橋の教会に通い、信徒や教会に施しを行い、捨て子を養子にするなどして、布教活動を広げていた。この頃三浦按針とも交友があったかもしれないが、次第にキリシタンへの迫害は強まっていった。家康の側室への要望を断った、おたあは慶長17年(1612)伊豆大島に流罪となった。どうした家康、後世、神君とあがめられた家康も所詮男であった。その行為は続き、新島、神津島へと、次第に遠方への島替えとなっていった。晩年を迎えた家康は、秀吉と同じ、老害というパターンに陥っていったのである。イエズス会はおたあについて、「ジュリアは今こそ神に奉仕し、神のために苦しんでいる。城にいた時より満足している」と報告。「島原の乱」寛永14年(1637)以降、キリスト教の布教禁止、鎖国政策と、キリシタンへの弾圧は更に強まっていった。

 

            

 

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