「家康を支えた女たち」3側室たち ①
家康は、水野忠政の娘であり、岡崎城主松平広忠の妻であった於大の方(伝通院)を母にもつ。正室は築山殿と旭日姫の二人、19人とも21人とも云われる側室たちに、17人の子供たちを生ませた。側室たちは、大年増の未亡人たちが多く5人、元侍女も3人程いた。概して美人が少なく、従って女中顔が多く、身体が丈夫で、健康的な女性が好みであった。貧しい農民の子から這いあがった秀吉が、高貴な若い女性を好んだのとは対照的である。家康は築山殿亡き後、2度目の正室旭日姫とは、別居生活を続けた。その後正室を持たず、多くの側室たちを持っているが、正室的な役割を担ったのが、西郷局(せいごうのつぼね)と阿茶局(あちゃのつぼね)である。因みに2人の正室は、幕府が成立し、大奥が確立されるのは、慶長から元和年間(1596~1624)であるため、大奥を知らないし、その前に亡くなっている為、御台所とは呼ばれない。初代御台所は、2代秀忠正室浅井江である。
「西郷局・お愛の方」家康が旭日姫と別居生活の間、実質的に奥向きの生活を支えたのが西郷局である。天正6年(1578)19歳で、38歳の家康の側室となり、翌7年、浜松城で三男秀忠、8年、四男忠吉を出産。美人で穏和で、誠実な人柄であった為、周囲の家臣や侍女たちから好かれていた。また、強い近視であったため、盲目の女性たちに同情をよせ、生活を保護していた。天正17年(1589)息子秀忠11歳の時病没、28歳。秀忠が二代将軍、忠吉が尾張清洲城主になったのを知らないで、若くして死んでしまった。
「阿茶局・須和の方」西郷局が天正17年、旭日姫が同18年に病没後、幕府誕生の創生期、老中並みの活躍をして、表、奥を支えた女性である。弘治元年(1555)甲斐武田の家臣飯田直政の娘として誕生、19歳の時、駿河今川氏の侍大将神尾忠重に嫁いだ。人質であった家康は、この侍大将に何かと世話になっていた。4年後、夫神尾は戦死。当時、須和の実家甲斐は、織田、徳川、北条と対峙していた。そうした状況の中で家康と知り合い、子ども連れで浜松城に入った。浜松城は三方ヶ原台地の斜面に、元亀元年(1570)家康29歳の時に築かれた、野面積みの石垣の城である。須和は天正7年(1579)側室に迎えられ、浜松城へ入り、阿茶局を名乗った。家康38歳、須和25歳の大年増であった。家康は本来後家好きであったが、特に須和を好み、何処へでも連れて行った。武芸、馬術を得意とした須和は、家康とともに「小牧長久手の戦」に参戦、馬を乗り廻した挙句、陣中で流産、以後、子供に恵まれなかった。武芸にも優れ、細やかな気配りをする彼女に、家康は奥向きの仕事を任せた。西郷局が亡くなると、須和は当時11歳の秀忠と、10歳の忠吉を手元に引き取り育て上げ、政治面でも実力を発揮、次第に徳川家を代表する女性となっていった。「関ヶ原の戦い」では、西軍小早川秀秋の寝返り作戦に成功、徳川実記によると「阿茶局という女に珍しき才略ありて、慶長19年(1614)大坂の御陣にも常高院(浅井三姉妹の次女)と同じく城内に入り、淀殿に対面、和睦の事ども、全て思召しままに、なしおほぜるをもて、世にその才覚を感ぜざるものなし」としている。慶長19年「大坂冬の陣」のきっかけとなった、方広寺鐘銘事件では、豊臣方の大蔵卿局(大野忠長の母)と会談、徳川に有利な条件に導いていった。また、その冬の陣では、常高院(京極初)と休戦の和議をまとめ、結果、大坂城の外堀は埋めたてられ、裸の城となった。淀君48歳、阿茶局60歳。秀吉が石山本願寺の上に築き上げた大坂城は「夏の陣」で炎上、豊臣家は滅亡した。「桐一葉 落ちて天下の 秋を知る」家康没後の元和2年(1616)ののちも、通常側室は仏門に入るが、遺命により落飾を許されず、同6年、秀忠、江の五女、東福門院和子(まさこ)の母代りとして上洛、入内をサポート、母、お江与の方も身重な体で、娘とともに京に上っている。更に須和は、和子と後水尾天皇の間に、子供が出来ると再び上洛、その後も幕府と朝廷の融和に務め、78歳で剃髪、寛永14年(1637)83歳で家康のもとに旅立った。これらの功績により従一位を叙任、臣下の女性としては最高位であった。江戸での菩提寺は雲光寺(江東区三好)、京は自らが開基した、上徳寺(京下京区)である。
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