「家康を支えた女たち」➁娘・孫たち

 歴代将軍の中で、子宝に恵まれたのは、11代家斉で、16人の側室たちに54人もの子を設けた。次いで12代家慶は、7人の側室に23人の子を設け、初代家康は、19人とも21人ともいわれる多くの側室をもち、17人の子宝に恵まれた。因みに14代家茂は側室を持たず、和宮との円滿な生活を送ったが、子供には恵まれなかった。さて、将軍家に生まれた娘たちは、大名家に嫁いだのちも、将軍家の「姫君」として遇された。男子が大名家に入ると、基本的にその家の人間となるとは異なっていた。姫君が大名家に嫁ぐと、御三家、御三卿、三位以上であれば「御主殿」(ex 加賀前田家に嫁いだ溶姫)、それ以外の大名家に嫁ぐと「御住居(おすまい)」と称された。姫君が嫁いでくると、江戸屋敷地内に別棟の屋敷が建築され、若年寄1人が御掛りとなり、他に女中、広敷役人が付けられ、一定の賄利料(生活費)が支給された。御三家である尾張徳川光友に嫁いだ、3代家光の娘千代姫の場合、元禄11年(1698)千代姫死亡時点で、生活費年間5千両を費やし、女中73人、広敷役人49人が仕え、大奥と共に幕府財政を圧迫した。

 家康の父、広忠は母於大とは別の女性との間に、2人の女子を設けている。家康にとっては異母妹、秀忠にとっては叔母たちは、当然結婚して子供たちを産んだ。一方、母於大が再婚し娘たちを出産、家康の異父妹となった彼女たちも、結婚してその子たちを産んだ。その子たちは家康(18人)秀忠(9人)の養女となって、将軍の血縁者として、婚姻政策(政略結婚)の過程において、重要な役割を果たしていった。家康、秀忠たちの実の娘に関わらず、養女たちにも、徳川家の一員として、遺産分与がなされた。この事からみれば、政略結婚において、養女たちの果たした役割が、形式的のものでなく、実質的にも重い意味があった事が伺われる。彼女たちが嫁ぐにあたって、徳川家の娘として「葵の御門」の使用が許され、実際の血縁関係より系図上の関係が、表向きの世間では、重要視されたのである。

<家康の娘たち>

「長女亀姫」「築山殿」との間に永禄3年(1560)生まれ、17才で長篠の戦いで功をあげた奥平信昌と結婚、4名1女をもうけた。岡崎城に住み「新城殿」と呼ばれる。父家康は亀の侍女に、自筆の書状を8通ほどだしており、亀に対する父の細やかな愛情が伺われる。

「次女督姫」三河国岡崎城に産まれ、母は「西郡(にしのごうり)局」殿で、家康最初の側室だとされる。甲斐の国を巡り北条氏と和議が成立、政略結婚により、天正11(1583)19歳で5代北条氏直と結婚、天正18年,秀吉の小田原征伐により北条氏滅亡、夫氏直は助命され高野山に配流されるが、翌年病没(30歳)、27歳の督は実家に戻る。家康が江戸入府にあたって、小田原、鎌倉を政都とせず、江戸としたのは、督からの情報も参考にしたと見られている。文禄2年(1590)30歳の時、三河国吉田15万石、城主池田輝政と再婚、5男2女を設ける。家康の娘を妻に迎えた輝政は、関ヶ原の戦いでは、外様ながら東軍につき、戦後、播磨国姫路52万石を拝領、姫路城を大改修、白鷺城と呼ばれる名城に築き上げた。「播磨御前」と呼ばれた督は、その浪費癖のため藩財政を圧迫、騒動の一因ともなったといわれる。

「三女振姫」浜松城で産まれ、母は「下山殿」最初の夫、会津の背後を固める家康の意図によって、3歳年下の会津藩主蒲生秀行と結婚、2男1女を設けたが、秀行は慶長17年(1612)30歳で死亡、振は浅野家との関係強化の思惑により、元和2年’(1616)今度は6才年上の、和歌山城主浅野長晟(ながあきら)と再婚、翌3年に男子を産むが、高年齢出産がたたってか、振は秀行との子供たちも残して死亡 38歳の若さであった。「四女桜姫」慶長12年(1607)駿府城で産まれ、母は「茶阿局」、家康六男忠輝、七男松千代を産む。「五女市姫」母は「お梶の方」梶は13歳の頃家康に仕え、1度結婚したが、離別して再度家康に仕え、家康との間に市を産んだが、市は4才で早逝してしまう。

<家康の孫たち>

「完子」江の2番目の夫、羽柴秀勝との間に産まれた娘、関白九条兼秀の息子忠栄(幸家、19歳)と結婚、慶長13年(1606)幸家は関白に就任、江は御台所と関白の義母、江戸と京のファーストレデイとなる。浅井家の血筋、完子の子孫は皇室を繋いでいくことになる。

「千姫」家康孫、秀忠と江の長女として、山城国伏見城で誕生。2歳の時秀吉の遺命により、秀吉と淀殿の嫡子秀頼と婚約、つまり母親が浅井三姉妹の長女と三女であるため、従姉妹同士の結婚となる。当然政略結婚的な思惑となる。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにより徳川が覇権を握る。家康は、豊臣家を地方の一大名として、取り込もうと目論むが、淀殿は断呼拒否の姿勢を取った。こうした状況の下、7歳になった千姫は、11才の秀頼の下に嫁ぐ。前日、秀頼を利家と共に謁見した家康は、その風貌に亡き祖父浅井長政の面影を重ね決心した。豊臣家を滅ぼさなければ、我が子孫の存続はない。淀殿の江戸への転居、方広寺の鐘銘など、諸々に難癖をつけ、更年期をむかえた、淀君の精神状態を巧みに衝いだ、家康とそのブレーンたちの心理作戦であった。「大坂冬の陣」元和元年(1615)「大坂夏の陣」に誘導、千にとって、実家が婚家を潰しにかかった。炎上する大阪城から脱出した千を、祖父家康はその無事を喜んでくれたが、父秀忠は何故か冷淡であった。関が原で大幅に遅参して、参戦出来なかった恥辱が尾を引き、周りの大名たちへの面子で、素直に喜べなかったからと云われる。翌2年、20歳となった千は、伊勢桑名城主、本多忠政の嫡男忠刻と再婚、千の一目ぼれとされる。その翌年、本多家は姫路へ国替し、かの地で千は勝姫、幸千代を産む。この頃が千にとっては一番幸せな時代であった。嫁いで10年後、幸千代が早逝、夫忠刻も31歳で没し、千は娘を連れて、母、江の居ない江戸城に戻り、髪を下ろし「天樹院」と号した。竹橋の御殿に住み、弟、家光の子「綱重」の母代わりを務めたり、秀頼遺児「天秀尼」の養母としてサポートに勤め、寛文6年(1666)70歳で、曾祖母於大が眠る伝通院に眠る。

「子々(ねね)姫」江の次女、慶長4年(1599)江戸城で誕生、3歳で江戸を離れ、数え15歳で女児を出産、それから1度も江戸へ戻ることなく、天和8年(1622)子々は金沢で没する。24歳。加賀前田家との政略結婚であった。墓所は加賀国金沢天徳院、秀忠、江にとって、3歳で嫁に出してから、1度も再会する事もなかった娘の、早すぎる死であった。「勝姫」江の三女、家康次男結城秀康の嫡男、松平忠直と結婚。「初姫」江の四女、江は千姫の嫁入りに大坂まで同行したが、この折、江は妊娠中であった。伏見城で誕生した初は、母親江のすぐ上の実姉、京極初の養女となり、更に京極家に嫁いだが、寛永7年(1630)江戸の京極屋敷で没した。まだまだ若い28歳であった。

「東福門院和子(まさこ)」和子は秀忠、江の第七子。初名は松姫、まさこの呼び名は、宮廷にあって、濁音を避けるための呼び方である。家康、秀忠は清盛、頼朝に倣って、天皇家の外戚となるべく画策、秀忠の五女和子を、水尾天皇へ入内させ、女御から中宮へ柵立した。「中宮」は皇后の別称であり、祖母、母、妻の三宮を中宮と呼んだ。平安時代以降は皇后、及び同資格の天皇の後宮を指した。寛永6年(1629)「紫衣事件」のため、後水尾天皇は退位、和子は東福門院を号する。天和9年(1623)に産まれた興子(おきこ)内親王が、109代、明正天皇として即位、和子は幕府と皇室の間で気苦労したというが、両者の融合に努め、宮庭に小袖を着用する習慣を拡め、手先が器用であった為、押絵を得意とし、茶道を好んだという。


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