江戸物語番外編 大奥・奥の女たちⅠ「家康を支えた女たち」①母於大と2人の正室
いよいよ家康が天下取りに向かって、支えてくれた女たちの登場である。家康は2人の正室と、16人とも21人とも伝わる側室をもった。彼の長い人生の過程において、幾たびの戦いの陰で支えてくれた、また、不幸にも犠牲になっていった女たちを、家康はどう逆に支えたのか、どうケアをしていったのか?「どうした家康」周りの人間たちに支えられて、やっと天下を取った家康。「神君」と神に祀られた本人は、それで満足していたのであろうか?江戸幕府初代将軍家康の裏側の素顔も、併せて追ってみることにする。さて、皆さまの天下「充足した健康な毎日」は、維持、支えられてされているであろうか?
徳川家康は、三河(愛知県東部)岡崎城主松平広忠を父に、同じく三河刈谷城主水野忠政の娘、於大を母に天文11年(1542)12/26岡崎城で誕生、岡崎は、西に尾張国織田信秀、東は駿河国今川義元に挟まれた小国であった。その後水野家が織田方に組みした為、母於大は父広忠と離婚、のちに、於大は尾張国坂部(阿古居)城主、久松俊勝と再婚、3男4女を設ける。家康にはこうした環境から、父母を同じくする兄弟、姉妹はいない。少年時代(竹千代)を支えたのは、生き別かれた母於大と、祖父清康の正室華陽院であるという。後年、江戸に幕府を開いてから、異父弟たちを大名に取り立てている。ひとつが伊予松山に城を構え、人形町に下屋敷があった、松平(久松)家である。
ここで、家康の天下取りまでの人生をざっくりと歩んでみると、天文16年(1547)6歳で今川方の人質となるが、途中略奪され、一時織田方の人質となる。天文18年、父広忠暗殺される、家康人生のピンチ①である。8歳から19歳まで義元の監督下、遠江駿府城で長い人質生活を送る。この間の弘治3年(1557)築山殿と結婚。その3年後の永禄3年(1560)義元上洛中、「桶狭間(尾張国知多郡)の戦い」により、信長の奇襲により討たれる。家康にとってチャンス到来、そのまま戦線を離脱、岡崎城に入り、やっと自立を果たす、この時19歳。浜松城に移るまで、11年間をこの岡崎城で過ごしている。その後織田家と連合を組んだ家康は、元亀元年(1570)近江国浅井郡姉川河原(現長浜市)での「姉川の戦い」で、浅井、朝倉勢と戦う。この戦いにより浅井朝倉は弱体化、信玄や本願寺の顕如らと提携を強めていく。同3年、武田信玄は上洛のため、浜名湖西北部三方ヶ原を通過、家康意地を見せたが完敗、命からがら浜松城へ逃げ帰る「三方ヶ原の戦い」が起きる。人生のピンチ②である。 天正元年(1573)信玄死亡、7月、室町幕府滅亡、8月、信長、朝倉義景を一乗谷(越美北線=九頭竜線)で討ち、8月、小谷城落城、市と浅井三姉妹は城から逃れる。同3年、信長鉄砲隊vs武田騎馬隊の「長篠の戦い」が始まる。この戦いは武田氏滅亡に繋がっていく事になり、同10年(1582)3月「天目山の戦い」で武田氏滅亡。その間の天正7年(1579)家康1番目の正室築山殿と信康母子が、武田氏と通じていると疑いをかけられ、信長の命令で殺害、自刃に追い込まれている。人生のピンチ③である。
家康人生最大のピンチ④が起きるのは、武田氏が滅亡した同じ天正10年、時は今の6月である。やれやれ一服ということで、家康は信長の招きに応じて、京や大坂を視察、堺を訪れていた時、信長本能寺にて討たれるの報が届いた。世にいう「本能寺(京都四条西洞院)の変」である。家康その時、どうしたか?意外と単純な答えを出している。さんざん上手い具合に使われた、盟主信長がいなくなった訳であるから、今度は自分の出番だと考えず、本人この場で切腹して死のうとした。これからの可能性を考えずに死を選択したのである。これには周りに家来たちの方が慌てた。先ずはこの山地を越えて、伊勢湾に出よう。そう進言、作戦をたてたのは、2代目服部半蔵である。家康ピンチを乗り越え、堺から鈴鹿山脈を越え、伊勢白子or四日市から、船で三河までの「伊賀越え」である。無事戻った頃、中国地方で戦っていた秀吉軍が、大返しをして光秀を山崎で破り、天下取りの第1歩を歩み、続く同11年「賤ヶ岳(琵琶湖北部)の戦い」で、宿老柴田勝家を越前北ノ庄(現福井市)で破る。信長の跡目争いは、結局秀吉が餠をほおばった。市は夫と共に燃える城の中で自刃、浅井三姉妹はニ度目の落城に会い落ちのび、母と永遠の別れとなった。父親、叔父、母親と続けて、貴重な後盾を失っていった。同12年「小牧・長久手の戦い」により、徳川、豊臣講和の証として、朝日姫(秀吉妹、家康継室)と、家康次男秀康、四男忠吉を人質交換。同18年、八朔「小田原戦役」により家康江戸入府、ニ女督姫の情報が役だっている。因みに八朔とは、8月の朔日(陰暦では月の第1日目)の略で、旧暦の8/1の事である。家康は自分の覚悟を表す為に、白装束で陣太鼓を打ちながら、江戸に入ったと伝えられている。慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」この戦いにおいては、側室でもあり、表の舞台でもよきパートナーである阿茶の局が、小早川秀秋の寝返り工作を図り、戦いを有利に導く。同8年、征夷大将軍に就任、江戸に幕府を開く。年老いてきた家康は、わが人生の集大成の為、秀忠や子孫の繁栄の為、豊臣政権の根絶を図る。同19年(1614)「大坂冬の陣」阿茶局大坂城を裸にする。元和元年(1615)「大坂夏の陣」大坂城炎上、浅井三姉妹の長女淀殿、三度目の落城、城と運命をともにする。翌2年(1616)4月、いろいろあって家康大往生、75歳。死因は鯛の天麩羅にあたったとされているが、本来は悪性腫瘍(胃がん)によるものである。江戸城では以後、天麩羅料理は縁起を担いで禁止、本来は天麩羅料理で火事騒ぎを起こていた為、以来、城内での料理は禁止とされている。
「母、於大の方」菩提寺、通称「小石川伝通院」は、正式名「無量山傳通院寿経寺」於大の方の法名「伝通院殿」に因むという。ここに家康の母於大の方の墓所がある。同じく、家康の孫、千姫(天樹院)、3代家光御台所鷹司孝子も伝通院に眠り、徳川家ゆかりの寺院となっている。小石川伝通院は、増上寺、寛永寺と並んで、江戸の三霊山と称され、江戸18檀林(仏教の学問所)の上席として、千人もの学僧が修行していたと云われる。天文10年(1541)三河刈谷城主水野忠政の娘、於大は14歳の時、みっつ年上の岡崎城主松平広忠と結婚、翌11年、家康を産む。於大の兄、信元が織田信秀と提携した為、於大は広忠と離縁、のち、久松氏と再婚、3男3女をもうけた。江戸幕府成立後、大名に取りたてられた異父兄弟たちは、松平を名乗り、伊予松山15万石松平家もそのひとつである。江戸日本橋人形町にあった下屋敷は、維新後、伊予の人々の寄宿舍となり、日露戦争で活躍した秋山兄弟や、俳人正岡子規たちも共に生活をしていた。また、異父妹、松姫を、家康の戦を支えてきたニ連木城(現豊橋市)の正室とし、1男1女をもうけたが、惜しくも24歳の若さで亡くなってしまう。慶長7年(1602)家康は「関ヶ原の戦い」で勝利の後、生母於大を京の伏見城に招くが、その年の8月に75歳で永眠、翌8年は母親に支えられた息子家康が、やっと江戸に幕府を開く。
「正室、築山殿」駿河(静岡県東部)の戦国大名、今川義元の人質生活を送っていた16歳の元信(家康)は、弘治元年(1555)元服、竹千代から義元の一字をもらって松平元信と名乗り、同3年、今川家臣関口義広の娘(母は義元の妹)瀬名姫(築山殿)と結婚、瀬名姫は同年若しくは、年上であったと云われる。長男竹千代(信康)、長女亀姫をもうける。永禄3年(1560)「桶狭間の合戦}同10年、信康は信長の長女徳姫と婚姻、共にまだ9歳であった。母築山殿にすれば、嫁徳姫は、叔父義元を討った仇敵の娘であった。この嫁、姑の確執に反発した徳姫は、父信長に訴状を送った。①義母築山殿は我々夫婦の仲を裂こうとして、武田家ゆかりの女性を、夫に押し付けている。②義母は武田氏と内通している。信長は問題視して、家康に弁明を求めた。その使いを務めたのが、徳川家臣№1の酒井忠次であった。忠次は何故か信康を好まなかったという。従って一切の弁明をしなかった。しないという事は肯定である。信長との同盟を重視した家康は、信長の判断に従った。天正7年(1579)岡崎三郎四郎信康は二俣城に移され自刃、正室築山殿も浜名湖畔小薮村で殺害された。原因は別に、信長が信康の器量を恐れたとか、家康が徳川家の将来の為にとかいわれるが、真相は薮の中である。
「継室、朝日(旭)姫」天正12年(1584)一連の「小牧・長久手の戦い」では、家康・織田信雄連合軍は、天下取りを目論む秀吉軍に対し、戦闘面では優位に立っていたが、政治的立ち回りの上手い秀吉に、指導権を握られ和議が成立した。その政治的決着の証として、家康側は次男於義丸(秀康)、四男信吉と、秀吉側は異父妹朝日姫の人質交換が成立。朝日姫はすでに結婚していたが、無理やり離婚させられて、家康の2番目の正室となる。勿論、体のいい政略結婚である。朝日姫は当時44歳、家康より1歳年下であったが、環境の変化と先夫への恋慕から、体調を崩してしまう。そこへ見舞いに来たのが母の大政所(天瑞院)である。泣きあって再会を喜ぶ様を見て、徳川の人々は、当初姫は替え玉かと疑っていたが、その疑いを晴らしたと云う。天正14年、家康は居城を浜松から静岡へ移転、朝日姫も駿河御前と呼ばれたが、臣従した相手の秀吉の妹を、駿府において置く意味もなくなり、同17年、母の見舞いを口実に京へ送り返し、再び駿府への帰還を求めなかった。2度目の妻はそれで気が緩んだのか、翌18年、1月に病没してしまった。享年48歳、天正18年は小田原北条氏が滅亡し、家康が江戸へ入る年である。
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