豪姫と宇喜多秀家 ⅱ

 宇喜多秀家正室豪姫(南の御方)は、天正2年(1574)前田利家とまつ(芳春院)の四女として誕生した。妹に細川家に嫁いだ千世がいる。安土城内では木下家(豊臣秀吉)とは向い合せの居宅であった。子宝に恵まれなかった藤吉郎、ねね夫妻から熱望され、また豊臣家との親交を深めるため、豪姫は2歳の時木下家の養女になった。秀吉は自らの勢力拡大のために、妻や姉の縁者を始め、多くの大名たちの子女を養子養女としてきた。しかし、生まれ間もない幼い頃から育て上げたのは豪姫1人であり、男であったら関白にしたいという程溺愛されていた。仮に豪姫が男であったら関白を継いでいたかも知れない。しかし、それは淀殿に男児が生まれなかった場合の話である。仮に生まれても秀吉に老害が発症せず、周囲の者が豊臣家の安泰のため、体制を堅持できていたらの話である。我が子可愛さのために将来の展望を持てず、家来たちに懇願して死んでいった秀吉の下では、豪姫の将来はない。豪姫が養女であるとねねから打ち明けられたのは、宇喜多秀家と祝言をあげる事になった時である。秀家は秀吉が中国戦略に向かった折、秀吉の口説きでそれまでの毛利方から織田方に旗印を変えた直家と備前殿の子で、幼名を八郎といった。父直家は天正9年病死、翌10年「本能寺の変」で今度は信長が横死。天下は大きく揺らいだ。信長の後を継いで「天下布武」を目指した秀吉は、体制を固めるため当時10歳であった八郎を、豊臣家の養子として向かい入れ、養女豪姫と結婚させた。秀家16歳、豪姫15歳のときである。豪姫は結婚して大坂の備前屋敷に移って新生活、出産と環境の変化から病がちになってしまった。養父秀吉が我が子秀頼の安泰を家康以下、五大老、五奉行に何度も誓詞を書かせ、それでも不安なうちに亡くなったのは慶長3年(1598)8月18日、63歳。「浪華のことは夢のまた夢」の一生であった。この年豪姫は男の子を生み、3児の母となった。秀吉の死を待っていた家康は、我が身の天下取りに向かって行動を開始した。この行動を自重、和解させるため、豪姫の産みの親前田利家は奔走した。病がちであった利家もこのためか亡くなってしまった。

 利家の死によって束ねられていたタガがはずれた。三成などの文治派と清正、正則などの武闘派の対立が顕著になっていった。この狭間を利用して一気に攻勢に出ようと、家康は策を弄し暗躍した。武闘派に襲われた三成を左遷させ佐和山城に押し込め、次に利家の嫡男利長の大坂城追い出しにかかり、利家正室芳春院に人質としての江戸在住を求めた。これは後の参勤交代のベースとなる。更に家康は会津に転封となった上杉景勝に上洛を求めた。しかし、それを宿老直江兼続によって論破されると、家康は大坂城から軍勢を率いて会津攻めに出発した。これはあくまでも三成に事をおこさせるための誘導作戦である。案の定三成は乗ってきた。三成は近江佐和山城から大坂城に上ってきた。西軍についた秀家も岡山から18,000の軍勢を上らせた。大坂の備前屋敷で豪たちが様々な思いを巡らせていると、隣りの細川家の屋敷が軍勢に囲まれていた。「何事か?」三成の家中の者たちが今回の戦いを有利に進めようと、東軍についた大名たちの家族を人質として大坂城に連れ去ろうとしていた。豪姫は細川邸に向かった。「わが妹千世はいずれに」細川忠隆の若妻が走り出てきた。「さぁ早く、玉子(ガラシャ)様も」「駄目です。お姑様(ガラシャ)は既に覚悟を決め礼拝室にこもっています」「覚悟とは?」「自害です」細川軍を足枷なしに働かせるための配慮であった。「兎にも角にも早くここを去らねば千世殿も危ない」2人が宇喜多家敷に逃げ込むと同時に、大きな爆発音がして礼拝堂に火の手が上がった。姉、妹は今火の中で死んでゆくガラシャの壮絶な死を思い立ち竦んでいた。後に「関ケ原の戦い」が終わり、細川家では千世の逃亡を巡り父忠興と子忠隆が対立、忠隆は「大坂冬の陣・夏の陣」では豊臣家に与している。

 慶長5年(1600)9月15日、天下を分けた「関ケ原の戦い」で秀家は良く戦ったが、同じ養子であり小早川家に入った秀秋の裏切りによって西軍は敗退した。関ケ原の戦いの論功行賞では、裏切った小早川秀秋にかっての秀家の領国、備前・美作57万石が与えられた。起死回生を狙った秀家は、敵陣中央突破を敢行した島津家を頼ろうとした。大坂の屋敷を接収された備前殿は堺の家に、豪姫は金沢に戻っていった。薩摩へ向かう秀家は敵の目を盗んで再会を果たした。母備前殿には夜の闇に紛れ堺の屋敷に訪ねていった。親子は再会に涙した。妻豪姫の元へは秀家の使者が夜に紛れて潜んできた。無事との知らせと和歌が添えられていた。「武も運も 誉も果てし美濃国 かかる浮世を いかで白樫」兎にも角にも夫秀家の無事が伝えられ、豪姫は涙した。豪姫は早速白樫村に使いを出して、無事に生き延びた秀家と再会することができた。豪姫は久し振りの再会に秀家の胸にすがってむせび泣いた。これが夫婦にとって最期の別れとなった。

 慶長6年5月、大坂天満宮から秀家主従を乗せた船が南へ舵を取った。言い出したら聞かない、起死回生を狙う秀家は、南国島津家で再生を図ろうとした。当初家康とは一線を画していた島津家も、家康から領土が安堵されるに至って、お家の事情を抱え状況が変化してきた。やがて秀家が薩摩にいることも明らかになり、島津家に迷惑が及ぶのを避け、秀家は家康の元に身柄を預けた。家康以下徳川幕府は断罪を主張した。今や幕府内では外様の雄藩となった豪姫の実家加賀前田家と、最後まで家康に立ち向かった薩摩島津家は秀家助命嘆願に廻った。「関ケ原の戦い」では運良く勝利したが、大坂ではまだ秀頼母子も健在である。豊臣遺臣の動きも不気味である、こうした状況を踏まえると秀家断罪には踏み切れなかった。駿河国久能山に幽閉されていた秀家、長男秀高、次男秀継は、3年後の11月鳥も通わぬ八丈島に遠島が決まった。恩赦を待っていた豪姫は、宇喜多家の没落後、暫く高台院(ねね)の仕えていたが、洗礼を受けた後1人娘を連れて慶長12年(1607)金沢に帰っていった。その信仰の先達を勤めたのが内藤ジュリアであったと云う。金沢で豪姫は娘を嫁がせ、なお1人で夫の帰りを待ち続けた。その間豪姫は夫や2人の子供たち、一緒に島へついていってくれた家来たちに、米や衣類、薬、金子などを送り続けた。伊豆大島へ流された流人は恩赦により帰って来ることが許されたが、八丈島の流人は何年経っても本土へ帰ることは許されなかった。帰らぬ夫と子供たちを待ち続けた豪姫は、寛永11年(1634)61歳で故郷金沢でこの世を去った。夫秀家は八丈島で84歳の生涯を全うした。江戸を遥かに臨む八丈島の海岸では、秀家と豪姫2人の夫婦像が、仲良く座って太平洋を眺めている。2人は遠く起きたことを想い出しているのであろうか、それとも短く別れてしまったため、語られなかった愛を語り合っているのであろうか。  <チーム江戸>

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