「姫たちの落城」第8章 前田利家娘豪姫と宇喜多秀家ⅰ
斎藤道三や松永久秀と並んで、戦国下剋上の時代「梟雄」と呼ばれた武将に宇喜多直家がいた。直家は古代備前(岡山県)地方の豪族であった、吉備一族三宅氏の後衛で、三宅氏は百済から渡来してきたとも云われている。一般的に伝えられている系図では、児島郷(岡山市)の地頭であった、児島氏の流れをくむ児島高徳の子高秀が宇喜多(岡山市)に住み、宇喜多(宇喜田、浮田)氏を称するようになったと云う。直家は永禄2年(1559)亀山城主であり、主君浦上宗景の重臣であった中山信正を謀殺、主君である浦上氏と肩を並べるようになっていく。永禄12年(1569)主君に公然と反旗を翻し、浦上方の支城を攻撃、翌元亀元年、岡山城主金光崇高を謀殺し、備前一国を支配、更に天正元年(1573)この岡山城を大改修して居城として、備中、美作への領土獲得の本拠とした。天正3年には安芸国毛利氏の助けを得て、領土を備中、美作にまで拡大、同5年、主家浦上氏を滅亡させた。直家の手口は、先ず相手を信用させしかるべき後に、相手を喰い殺しその城を乗っ取るというものであった。直家の当面の敵は、手助けしてくれた毛利氏のみとなった。昨日の友は今日の敵であった。天正6年、秀吉は三木城別所長治を攻める事になった時、長浜城が拠点であった。同8年三木城は長治の自刃によって落城、一方、直家は岡山城で毛利方の先鋒として秀吉軍の抵抗勢力であったが、毛利氏に備えるため、秀吉の説得に応じて織田軍に帰順した。業病に犯されていた直家は秀吉に宇喜多家を託し、翌9年2月14日他界した。53年間の梟雄人生であった。この時跡継ぎ八郎はまだ8歳であった。4月になり直家の死を知ると毛利氏が攻め込んできたが、秀吉軍はこれを防戦した。岡山城に立ち寄った秀吉は備前殿と対面、跡継ぎ八郎を秀家と名乗らせ元服させ、宇喜多家の存続を約束した。その代償として当然の如く、美形である備前殿を我が物とした。今でいうパワハラの類いであろうか。
天正10年(1582)秀吉は信長の命令で備中高松に侵攻、清水宗治がたてこもる高松城を水攻めで攻撃した。この最中の6月3日夕刻に「本能寺の変」の知らせが秀吉の元に届けられた。秀吉は軍師黒田官兵衛の勧め通り、何食わぬ顔をして毛利側の使僧安国寺恵瓊を呼んで、信長の死を隠したまま宗治側と和議を結ぶ事に成功、急遽京へとって返す作戦に出た。世にいう「中国大返し」である.6月4日宗治自刃、城は開城され、援軍に駆けつけていた吉川元春、小早川隆景らの兵は撤退した。6日、秀吉は自軍を備前高松から岡山へ戻し、8日には姫路城に入った。この城で兵たちに休息を与え、貯えられてい兵糧米と軍資金を兵たちに惜しげもなく分配し、兵たちの士気を鼓舞した。後世になって、この姫路城の存在と軍資金、兵糧米が秀吉に天下を取らせたと云わしめた。9日明石城、11日尼崎、13日の「山崎の戦い」はあっけなく終わり、光秀は天下を取り損ねた。
備前美作(岡山県東北部)地方には、古くから「美作美人」と云う言葉があり、美人の産地であった。宇喜多秀家の母「備前殿(お鮮)」は15歳で結婚したが、最初の夫は戦いで死んでしまったため、21歳で未亡人となってしまった。仕方なく備前殿は幼子を連れて、直家の城下町であった備前沼城(亀山城)に逃げ込んだ。美形であった備前殿は、当時まだ独身であった直家の目にとまり、当人から正室になって欲しいと口説かれた。備前殿は捕らわれの身も同然で我が子の安全を考え、この申し出を承諾した。この時直家37歳、16歳年上の2度目の夫であった。備前殿は「おふく様」と呼ばれて、天正元年直家が岡山城に入った年に、次男八郎、後の宇喜多秀家を産んだ。直家は兄弟でさえ直家の前に出る時は、衣類の下に鎖帷子を付けて出たという程の梟雄ぶりを発揮していたが、備前殿には優しい夫であった。いつの世も若くて美人な妻には、年上の夫は優しいのが定番である。「美」と「若さ」は戦国女性の身をもって扶けた。現代でも共通している事柄である。
天正10年、秀吉は光秀を討ち「清須会議」を経て、信長宿老柴田勝家を越前北ノ庄で自刃させ、織田政権の中枢に上り詰めていった。ある時宇喜多秀家母子を大坂城に呼び寄せ、秀家を養子にした。秀吉の養子には姉の子や妻ねねの甥などがいたが、秀家は母の血を継ぎ群を抜いて見映えが良かった。秀吉は朝廷に願出て秀家の位をあげていき、「備前宰相」と呼ばれるようになった。正室は自分の養女にしていた前田利家の娘「豪姫」とした。こうして宇喜多秀家は豪姫と結婚することで、名実共に豊臣家の一員となっていった。老齢化した秀吉は、自分亡き後の豊臣家の行く末を心配、秀頼を扶けるべく「五大老」制を定め、若冠24歳の秀家を加えた。この時家康は54歳、利家57歳、毛利輝元42歳、異界は小早川隆景54歳(後に上杉景勝)、位階は家康が大納言、秀家は中納言であった。秀吉がこの世に未練を残して亡くなると、尼となった母親の備前殿(円入院)は大坂の宇喜多屋敷には入らず、堺の伊庭町に移り住んだ。夫直家の岡山城に出入りしていた小西行長の実家もあって安心できたが、やがて息子夫婦の許に戻っていった。孫たちとの安らぎの生活は2年足らずであった。この墓がお鮮様(備前殿)の墓だと伝えれているがいずれも定かではない。現在岡山城の東、横山町に「法鮮尼」の供養塔が建っている。やはり備前殿の墓は、家族が幸せに暮らした岡山が1番ふさわしい。次回は秀家と豪が戦った「関ケ原の戦い」に舞台は移ります。
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