「姫たちの落城」濃姫と安土城 ⅲ
つい最近まで運行していた寝台特急「ムーンライトながら」に、深夜東京駅で乗車すると、明け方近く岐阜県JR大垣駅に着く。向かい側のホームに停車している播州赤穂行きの新快速に乗り込むために、眠たい目を擦りながら歩道橋を駆け上る。新幹線並みの速さを誇るこの電車は、関ヶ原の古戦場を走り抜け米原を過ぎると、徳川譜代筆頭井伊家が代々治めた彦根に着く。この線は本来「東海道線」であるが、「琵琶湖線」と愛称で呼ばれている。彦根を過ぎると、進行方向右側にキラキラと琵琶湖の水面が光っているのが眺められる。JR稲枝、能登川の田園地帯を抜けると、右手に小高い山が見えてくる。その山が信長幻の城「安土城」が建っていた安土山(標高199m)である。JR安土駅から徒歩約20分、人の膝ほど高さがある石段が連なる大手門が迎えてくれる。当時身長150㎝前後の武将が鎧を付け、この石段を登り降りする事は難儀であり、現代人では空身でも大変な石段である。城山へ登る道はこの正面玄関ともいえる「大手道」で道幅は約6m、両側に1mの溝、無愛想な石段の左手側に秀吉、右手側に前田利家の屋敷が与えられていたという。この階段を登っていくと天守閣に通じ、また、裏門に当たる「搦手道」は当時琵琶湖畔に接していたため、湖から運ばれた物資はここから城内に運ばれていたという。このように安土城跡は、現代人の絶好の歴史散歩コースとなっている。
「安土城」は天正4年(1576)琵琶湖東岸の小高い安土山に、普請奉行に丹羽長秀を命じ築かれ始めた。信長は着工ひと月もしない内から、岐阜城を嫡男信忠に譲り、茶道具だけを持って引っ越してきた。1日3000人もの人夫を動員、石垣を築くために旧武田家に仕えていた「穴太衆」が起用された。技能集団穴太衆は叡山坂本など全国の石垣普請に携わり、近世城郭の標準的スタイルとなっていった。着工から3年後の天正7年、安土城は完成した。城域は東西1㌔、南北1,5㌔、山頂に天守閣と本丸御殿、南殿、江曇寺御殿、それを囲むように二の丸、三の丸が造営され、城下町には楽市楽座が開かれた。信長は天正元年に足利幕府将軍義昭を追放、同3年「長篠の戦い」で甲斐の武田勝頼を破り「天下布武」を唱えるようになっていった。そうした流れの中、今までの岐阜城(稲葉山城)は地理的に畿内より遠方であると考え、京と岐阜の中間であり東国と北陸を結ぶ交通の要衝である、近江国安土(滋賀県)に新拠点を築くことにした。中世の安土山は三方が琵琶湖に接し天然の要害の地であった。当時信長の最大の敵であった上杉謙信や一向一揆に備えると同時に、併せて琵琶湖の水運を掌握する目的もあった。高い石垣の上に築かれた天守閣は5層6階、外壁は様々に漆や朱色と色分けされ、最上階は金箔で貼られた互が葺かれ輝き、障壁には狩野永徳の絵や宗教画が飾られた。安土城のことをヨーロッパの宣教師たちは「アズチヤマ」と呼んでいた。ポルトガルの宣教師ルイスフロイスは自書の「日本史」の中で、安土城はヨーロッパの最も気品があり壮大な城に匹敵、高さ60パルモ≒13mを超える石垣と邸宅には金が施され、人力をもってしては、これ以上到達し得ない程見事な建築物であると記している。天守の起源は諸説あるが、本格的な天守閣の建築は安土城に始まったとされる。信長は天守閣に提灯を吊るしてライトアップ、戦国大名たちにdemonstrationを行った。天守閣の威容をもって自己の持っている力を最大限強力に誇示、戦わずにして敵を威圧しようとした。信長はこの天守閣を余程気に入っていたとみえ、自身も天守の2階で暮らしていた。天守で暮らしていたのは戦国歴史の上でも信長独りであるという。
天正10年(1582)6月「本能寺の変」勃発、濃姫の従兄妹である光秀によって信長は横死した時、正室濃姫は安土城にいた。城を守っていた蒲生賢秀、氏郷父子に助けだされ、信長娘を正室に迎えている氏郷の居城に匿われた。その後は「安土殿」と呼ばれ、信長次男信雄の許にいた。安土城は「本能寺の変」の戦いで天守閣と本丸が焼失した。光秀側の武将によって焼かれたとも、信雄によって燃やされたという説もある。暫くは信長の孫、三法師や秀吉が安土城に入り、安土城はかろうじて存続していたが、天正13年、秀吉の甥秀次が近くの鶴翼山(滋賀県近江八幡市)に、八幡山城を築くにあたり城は廃城となり、繁栄していた城下町も八幡山の麓に移され、「楽市楽座」で賑わった城も町も、信長の死によって栄光から消え去ってしまった。
信長という人物は、フロイスによればきゃしゃな体つきで背は中位、ひげは短くで声は快活であったと云う。性格的には名誉心にとみ、正義心が強かったとされる。慈悲と人情味もあったと云うが、この点に関しては信長の戦歴を考慮すると疑わしい。酒は飲まず食事も少量で、早朝には起きて活動を始めた。普段は平静であったが、一旦何かが気に障ると怒りが爆発し止まらなかった。今でいう「キレル」性格であったことが伺われる。通常の人間が持ち合わせている信仰心はさらさらなく、全ての神仏は信じなかった。そのくせいざ合戦となると、神社仏閣の裏から鳥を飛び立たせ、勝利の前兆であるとして神仏を利用して兵たちの戦意を高めた。合理的な考えをもち、心理的な細かなプレイを仕組んだ。趣味は名馬、刀剣の収集に鷹狩りを加え、茶の湯とそれに関わる茶器の収集に執心した。名器を所有している戦国大名たちには、それが欲しいために彼らを懐柔したり作戦を変更したりして、目的の名器を手に入れようとした。松永久秀が所有していた「平蜘蛛茶釜」が欲しいため、何度もの久秀の裏切りを見逃してきたが、天正10年(1577)久秀は平蜘蛛を抱いたまま信貴山城に火をかけて自刃、信長は目論見が外れ悔しがったと推察される。信長も物の執着心に関しては、幼児程度の成長レベルであった。この物に対する執着心が、物から領土獲得拡大に進展、信長を「天下布武」に邁進させたともいえる。 次回は梟雄の独り「松永久秀と信貴山城落城」をお送りします。乞うご期待です。 <チーム江戸>
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