「姫たちの落城」信長正室濃姫(帰蝶)と稲葉山城ⅱ

 濃姫は帰蝶、胡蝶、於濃の方とも呼ばれているが、その名前は定かではない。つまり濃州=美濃の国の高貴な女性、美濃からきた姫と、美濃姫を省略して濃姫と呼ばれるようになったと考えられる。父斉藤道三42歳の時の娘である。母の道三正室小見の方は、東美濃の名家明智家の唯一の娘であった。本能寺で信長を討つことになる明智光秀の叔母にあたり、光秀と濃姫は従兄妹の関係にあたる。そうした関係から、光秀は足利幕府や朝倉義景から離れた後は道三に仕え、弘治2年(1556)斎藤義龍との戦いに敗れた事により浪人となり、信長に仕えるようになっていった。

 戦国大名の中には「梟雄(きょうゆう)」と呼ばれる武将が多い。松永久秀、宇喜多直家、伊勢新九郎(北条早雲)、毛利元就などの武将がそれにあたる。斎藤道三もその1人であった。梟雄とは荒々しくかつ狡猾な英雄を指す。儒教の世界では謀略は悪と考えられていた為に梟雄と称された。これらの解釈は近世に成立した2次資料に基づくものであり、主人を討ったり騙し討ちする事は、儒教の価値観と相容れないものであったため、後世の人々は彼らをそう呼んだ。しかし、戦国時代の「下剋上」の世の中では、そうすることで自分自身が生き延びていけたのである。その梟雄の最右翼、美濃のマムシ斉藤道三は謀略を重ね、美濃の守護職土岐頼芸の重臣となっていったが、天文11年(1542)道三は主頼芸父子の大桑城を攻め、2人を尾張国へ追放、美濃一国をその手の中に収めた。同15年になると土岐氏と彼を支援する越前朝倉氏や近江六角氏らと和睦が成立、その時の条件が、将来頼芸の兄の息子頼充に家督を譲る事、当時12歳の娘濃姫をその頼充に嫁がせる事であった。政略結婚である。しかし、翌16年頼充は24歳で早世、濃姫は仕方なく実家に戻っていった。同年、これを受けて今度は尾張の織田信秀(信長父)が、頼芸派の家臣たちと組んで道三に戦いを挑んできた。この戦いは信秀が大敗した。この時の和睦の条件は、またもや政略結婚、濃姫の輿入れであった。濃姫次なる相手は「尾張の大うつけ」と呼ばれていた信長であった。濃姫は輿入れにあたって父道三から短刀を送られた。「もし婿(信長)がたわけならこれで婿を殺せ」。濃姫「もしそうでなければ、この短刀で父上を刺す事になるかもしれませんな」。

 父道三は弘治2年(1556)親子仲が悪かった義龍と「長良川の戦い」で激突、戦死した。翌3年になると、信長側室生駒家の娘吉野(吉乃)が信長嫡男信忠を産んだ。濃姫が若くして亡くなっていたとするならば、吉野は信長の正室となった筈であったが、吉野は生涯信長の側室「居駒氏」であった。「武功夜話」によれば、前の夫の戦死により後家となっていた吉野を、信長が側室に迎えたという。濃姫が信長に輿入れした時期には、吉野は信忠を妊娠していた。そのことを内密に縁組みは進められた。斉藤家織田家の男たちのエゴによる、またしてもの政略結婚であった。しかも信長は濃姫を正室に迎えた後も吉野を側に置き、次男信雄、長女徳姫(五徳、家康嫡男岡崎三郎信康正室)を設けている。濃姫と信長の間に子がいなかったとというのが通説となっているが、封建社会において女の子の誕生の場合、生母は不明とする場合が多く、本当に子がいなかったかどうかは不明である。通説としては、子を産まなかったとされる濃姫であったが、織田家にとっては大きな存在であった。信長が「天下布武」を唱えることが出来たのは、濃姫の父道三が「美濃一国を婿信長に譲る」と証文をしたためた結果、信長は自らの領土と美濃一国を併合が現実化して、それなりの戦国大名の存在感を天下に示すことが出来たからである。信長にとって濃姫は美濃一国をを譲られた生き証人であったし、併せて濃姫は美濃の家臣たちを繋ぎ止める役目を担ってくれていた。信長は正室濃姫を自身の政策目標「天下布武」の為にも、決しておろそかには扱えなかった。

 戦国時代における女性の権威は、その実家の権威とイコールであった。併合した美濃の経営に神経を使っていた信長は、美濃斉藤家の娘濃姫の権威を借りる必要があった。このため正室濃姫を決して粗略には扱えない立場にいた。信長の子を産んでいない濃姫であったが、濃姫は美濃一国の「母」、象徴であったため、「本能寺の変」で夫信長亡き後、美濃の重臣たちによって守られ生きていった。没年は慶長7年(1612)78歳の天寿を全うした。墓碑は京都市北区大徳寺総見院にある。死に望み夫の部下であった秀吉や家康の政治を生きながらに眺め、夫信長の生き様をどう考えたであろうか。次回は濃姫と信長が建てた安土城をお送りします。    <チーム江戸>


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