「姫たちの落城」第7章 平蜘蛛の茶釜と信貴山城

 「信貴山城」は大和と河内の国境(奈良県生駒郡)に存在する、生駒山系に属する信貴山(雄岳、標高433m)山上に築かれた、戦国時代の典型的な山城である。大和国王寺から眺めると、見渡す程の壮大な山城であったと云う。城郭の範囲は南北約700m、東西約550m、曲輪数110以上を擁する奈良県下最大規模の城郭である。天文5年(1536)戦国武将木沢長政により築城されたが、天文11年、長政が「太平寺の戦い」で敗死すると、城はその後数10年も空白の時代を過ごすことになる。江戸城が道灌が謀殺された後、家康が入府するまで暗黒の時代があったのと同様であった。室町時代末期の大和国は、国全体を治めていた大名はおらず、興福寺や春日大社といった寺社の勢力が強い状態が続いていた。当時、河内国(大阪府東部)を支配していた梟雄松永久秀は、永禄2年(1559)筒井順慶の居城「筒井城」を攻め大和国の支配権を握り、信貴山城をスケールの大きな城に修築して入城した。翌3年、大和の国を制圧した久秀はこの城を大和支配の拠点とし、これと併行して軍事目的のための信貴山城より5里程離れた大和国北部に、政治目的として「多聞山城」も築城した。多聞山城はわが国初めて4層の天守櫓を構えた豪華な城で、後に信長はこの城をモデルに安土城を造りあげたとされている。信貴山城へは「近鉄生駒線」信貴山駅で下車、路線バスで山門に着く。そこから徒歩約1時間。若しくは同じく近鉄高安駅から徒歩約2時間の山歩きも楽しめる。

 信長が家康に話した言葉を記した「常山紀談」によれば、挨拶にきた家康に信長は、側にいた久秀を紹介「これなる御仁は松永弾正である。この老人は将軍を殺し、主君三好家に謀反、奈良の大仏までも焼いた。並みの者ではひとつも出来ない事をみっつまでもやった」と説明、側で恐縮していた久秀に向かって「誠に油断のならぬ物騒千万な老人である」と告げた。松永久秀は13代義輝を殺害した男、信長を何度も裏切った男、東大寺大仏殿を焼いた男とされている。こうした所業から北条早雲、斎藤道三と並ぶ戦国時代梟雄の独りだとされている。いずれも戦国時代活躍した魅力たっぷりの男たちである。久秀が歴史の舞台に登場するのは三好長慶の家臣となって成り上がっていく過程である。久秀が室町幕府13代将軍足利義輝を殺害したのは永禄8年(1565)で、主家である三好長慶が死んだ年であった。この時の三好家は三好家三人衆と呼ばれていた一族で、久秀はこの重臣たちと謀って義輝を謀殺した。三好義継や久秀は、将軍義輝を謀殺することによって次なる義昭を擁立、その傀儡として幕府を操ろうとしていたと考えられる。同10年、久秀は三人衆と折り合いが悪くなって奈良の町を戦場にして戦うことになる。「東大寺大仏殿の戦い」である。久秀は敵陣である東大寺の奇襲に成功、この戦いで大仏殿が焼失、大仏の首も落ちてしまった。一般的には久秀の仕業とされているが、「多聞院日記」によると久秀軍の兵火の残り火が大仏殿に燃え移った失火であると記している。いずれにしても久秀が関わっている。フロイスの「日本史」では、東大寺大仏殿の焼失は、三好方の切支丹の放火であると記されている。

 大和国の戦国時代は松永久秀と筒井順慶との覇権争いの時代である。永禄11年(1568)久秀と三好三人衆との間で抗争の過程において、三好衆により1時的に信貴山城を奪われるが、同年9月将軍義昭を奉じた信長は「上洛」に成功した。この上洛に協力した久秀は信長の援護の下、城を奪還し信長の同盟者の立場にいた。この時は名器「九十九髪茄子」を信長に献上して、大和一国の支配を認められ配下に入った。信長は1度裏切った者を絶対に許さない男であったが、何故か久秀を許した。余程茶器が好きでそれが昂じた結果の所業であった。しかし、大和国は元々興福寺や春日大社といった寺社が長く治めていた歴史があり、新参の統治者を快く迎える風土ではなかった。それでも良く働いていたが、突然信玄や三好三人衆と手を結び信長から離反、2度目の離反である。久秀が信長と直接的に対立した訳ではなく、将軍義昭との関係悪化が信長への悪化に繋がっていった。この時代、力ある者につくことは当然で、主家を裏切る事も当たり前であった。元亀4年(1573)=天正元年、信長に多聞城を包囲され奪われた。信長は自分の居城よりすぐれている城が存在する事は理屈に合わなかった。この考えから多聞城を徹底的に破壊した。信長は久秀の築城技術を取り込んでいき、その弱点を改良していった。結果そうした事により久秀の織田方での地位が相対的に低下、久秀の不満が増大、謀叛の理由になっていったと考えられている。

 「信貴山城の戦い」は天正5年(1577)10月5日に勃発、10日に終結した信長に3度目の造反を起こした、松永久秀の居城での攻城戦である。久秀は反信長勢力に呼応して、本願寺攻めから離脱、対決姿勢を露にした。この時信長は安土城にいた。「何用の仔細か存分に申し上げ候へ、委細聞き届けさせられ、御裁許あるべき由(織田軍記)」と2度まで裏切った久秀に対し、異例の処置を取った。籠城している久秀に対し、信長は光秀ら4万の大軍を送り込み、城に使いを出して翻意を促したが久秀は拒否、信忠軍に城下町が焼き払われ城は炎上した。久秀は妻子、一族と共、信長の欲しがっていた「平蜘蛛の茶釜」を打ち砕いて、天守閣に火をかけ自害した。68歳であった。「さほどに先年松永仕業をもって、三国隠れなき大伽藍奈良の大仏殿、十月十日の夜、既に灰塵と化す。その報い忽ち来たって地獄もかはらず。松永父子、妻女一門来きて天守に火をかけ、平蜘蛛の釜を打ち砕き焼け死に候」と。この日は10年前、東大寺大仏殿が焼き払われた日であった。京雀たちは仏の罪があたったと噂した。2度に渡って裏切りをした久秀を許そうとしたのは、久秀の持っている茶釜が欲しかった為だともされている。以後、信貴山城は廃城となった。ライバル久秀を倒した筒井順慶は、光秀の斡旋により信長の配下に取り込まれ、大和守護に任じられた。その拠点として築かれたのが「大和郡山城」である。その後郡山城に入ったのは、秀吉弟秀長である。秀長は大和、紀伊、和泉三ヶ国の拠点としてこの城を整備していった。光秀らはこの戦いの功績で、上級家臣にのみに認められていた、茶会の開催を信長から認められるようになった。また、この戦いの後、信長「天下布武」の完結のため、秀吉は「中国地方征討」に、光秀は「第2次丹波国征討」へ乗り出していくことになる。次回「姫たちの落城」は、宇喜多秀家の正室「豪姫」の物語です。    <チーム江戸>

 

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