「吉原細見」⑧長崎丸山と楠本タキ、イネ、高子ⅲ
イネの住む長崎は他の地域に比べれば、まだ解放的な土地柄であったが、その長崎でもイネは混血児であるため、幼い頃から差別を受けていた。それでもイネは5歳の頃から寺子屋に通い、学習意欲の強い女の子であった。父シーボルトから送られて来た医学書や蘭学書を学び、医師の道を目指していた。母タキは学問より芸事や家事などを身につけさせようとしていたため、母娘で対立することもしばしばであった。イネはある日タキに無断で、父の門人であった二宮敬作を頼り、海を渡り伊予宇和島に向かった。イネの将来を心配していた二宮は、自分の病院で基礎医学から外科医学まで教えてくれた。こうしてイネは父の教え子たちから医学を学び、日本最初の女性産科医のキャリアを積んでいくことになる。当時、わが国ではお産は汚らわしいものと思われていたため、その環境は劣悪であった。これまで女医がいないため、診察をためらって命を落とす産婦が後を絶たなかった。二宮はイネに産科を学んだ方がいいと勧め、父の門人である備前岡山産科医石井宗謙を紹介した。イネ19歳の時である。
備前岡山で6年8ヶ月ほど医療の現場に携わった。イネは自分は混血であるために結婚して家庭をもち、子供を産むという女性の人生を諦め、医師としての生きる道を決めていた。だが石井から一方的な性的暴力をうけ、不本意な出産を強いられた。イネ25歳のときである。イネは誰の手も借りず1人で出産した。嘉永5年(1852)2月7日、生まれてきた我が娘に「只私だけの子」の思いをこめて「只(後の高子)」と付け、生まれたばかりの娘を抱いて、母タキのいる長崎へ帰った。こうした事件は被害者が未婚の女性の場合、大半が奉行所などに訴えられることはなく、殆ど被害者側の泣き寝入りであった。これは五人組など住んでいる住民に確認してもらうなど控訴が面倒であったためと、被害者とその家族のプライバシーが全く無視されたためである。また、当時の男尊女卑の考え方が背景にあり、加害者は安穏生活をし、被害を受けた女性側のみが幼い子を抱え、悲痛人生を送った時代であった。今でもシングルマザーの環境は厳しい。ましてや婚前出産などは社会的に受け入れられていない時代であった。イネは母タキに娘只を預けて、長崎区播磨町で外科医をしていた阿部魯庵につき、外科を学びながら産婆の仕事を始めた。イネは近代医学を学んだ人間として、科学的な見地に基づく出産を説いて、わが国の産婦人科の発展に貢献していく事になる。
安政元年(1854)宇和島から村田蔵六(後の大村益次郎)を連れて二宮敬作が訪ねてきた。諸外国船来航により対外危機感を抱いた宇和島藩主伊達宗城(むねなり)は、大村を顧問として招聘、洋式兵制の確立や、砲台を築き鉄砲を製造させた。二宮はイネにこうした類い稀なる才能を持った大村から、オランダ語から医学までより高度な知識を習得させ、独り立ちできるようにと考えた。イネはこの提案を喜んだ。安政3年、益次郎は参勤交代で江戸へ出府する伊達宗城に従い、江戸麹町に蘭学塾「鳩居堂」を開いた。イネも追って出府した。安政という時代は日本が最も激動した時代である。嘉永6年=安政元年「ペリー来航」に始まり、安政2年「安政の大地震」、同5年、井伊直弼が大老職に就くと、天皇の勅許なしに「日米修好通商条約」調印され、維新の四賢侯(島津斉彬、松平慶永、山内容堂、伊達宗城)らが推していた水戸の慶喜を退け、14代将軍に紀州徳川の慶福(家茂)を付け、反対勢力を弾圧した。いわゆる「安政の大獄」の始まりである。安政6年、63歳になったシーボルトは長男のアレキサンダーを連れて再来日した。イネにとって夢にまで見た父との再会であったが、やがて幻滅に変わっていった。やがて息子や、教え子たちを残してシーボルトは帰っていった。イネは彼らから高度な西洋医学を学んでいったのがせめてもの助けとなった。
イネの娘只は、宇和島藩の奥女中にあがり、宗城夫人に仕えて名を高子と改めた。慶応2年(1866)高子16歳の時、シーボルトの通訳兼助手としてついてきた三瀬周三(28歳)と結婚した。この年はシーボルトがミュンヘンで亡くなった年である。孫娘の花嫁姿を見たタキは喜びひとしおであった。医学の道を目指すイネに代わって、高子を育てたのは祖母タキであった。その祖母も明治2年亡くなった。イネが43歳の年であった。イネは日本初の蘭方女医として独立を目指した。異母弟にあたるシーボルトの息子たちの支援で、東京に出て翌3年に「東京府京橋区築地1番地」に産院を開業した。順調な滑り出しであったが、同じ年の9月、世話になった大村益次郎が、京都で元長州藩士らに襲われる事件が起きた。明治政府の下で兵部大輶となった大村益次郎は、徴兵制による軍隊の創設をはかったため、士族の特権が脅かされるとして襲われたのである。イネと高子は東京から駆けつけて看病したが、破傷風の進行が早く、敗血症のため11月5日46歳でこの世を去った。イネは人生最愛の男性をこの時亡くした。明治6年になるとイネにも幸運が廻ってきた。福沢諭吉の推薦で宮中に出仕、明治天皇に仕えた典侍の出産に立ち会う事になったが、妊娠中毒症で母子も救えなかった。しかし、混血児であるイネが伝統的な皇室の御用掛に抜擢されたことは、画期的なことでありイネの名声は上がった。
明治10年、高子の夫周三がコレラに罹り早世した。高子は夫の意志をついで医者になろうとその道を歩み始めた。その高子がよりにもよって母イネと同じ挫折を強いられた。男性医師による性的暴力を受けたのである。明治になっても変わらない悪行であった。被害者のうけた精神的肉体的な苦痛に引き換え、加害者はなんの処罰もされない現実がまだそこにあった。母娘共々やりどころのない悔しさに涙した。明治政府は8年になると、医師免許及び開業試験を開始したが、女子受験の門はなかった。あくまでも女性蔑視の時代であった。我が国で初めて看護婦の養成所が設置された17年になって、女性にも解放されたがイネはもう還暦に近かった。その当時試験を必要としない経験豊富な女医たちが沢山いた。イネは築地の産院を閉め、長崎に戻り産婆の仕事を再開することにした。明治19年、またもやイネに試練が襲った。高子の再婚相手が35歳の若さで亡くなった。62歳になっていたイネは医師を完全に廃業、3人の幼い子を抱える娘高子を助けるために長崎の家を売却、シーボルト次男ハインリッヒが建てた麻布の家を引き取り、娘や孫たちと一緒に暮すことにした。今度は娘の高子が、祖母タキから仕込まれた琴の教室を開いて生計をたてた。やっとイネに家族に囲まれた安心した温かい老後が訪れた。明治36年、イネは食あたりで亡くなった。77歳であった。タキは異国人と家庭をもち、イネと高子は当時としては珍しい混血児という逆境の中で差別され、その美貌ゆえに異性から悲痛な経験を強いられた。何度も何度も荒波にもまれた3人の生涯は、その荒波に呑み込まれる事なく、強く生き切ったそれぞれの女の一生であった。晩年の高子(昭和13年没)は、「祖母も母も、そして私も本当に色々なことがございました。」と語ったという。江戸を彩った女たち「吉原細見」了。次回は「姫たちの落城」美濃のまむしの娘「濃姫」と岐阜城、安土城の物語です。 <チーム江戸>
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