「吉原細見」④庶民派紺屋(駄染)高尾
金が全ての吉原で、しがない神田の染職人が太夫、それも三浦屋の5代目高尾太夫と夫婦になったというので、噂好きの江戸雀たちの評判となった。誠がない吉原の男女の世界で、お客も敵方の太夫も誠を貫いたという、今回は涙を貰う純愛、人情物語である。話というのはこうである。神田紺屋町の染物職人久蔵は26歳になっても真面目男、人間真面目である事には越したことはないが、その頃は何故か真面目であることが馬鹿にされた、特に落語の世界ではそんなところがネタにされた。そんなある日、久蔵のもとに悪友が吉原の「花魁道中」を見に行こうと誘いにきた。そこで見た高尾に久蔵はぞっこん一目惚れしてしまった。女性への免疫が出来ていなかったから、そのウーマンショックは尚更であった。寝ても覚めてもまた会いたいとの熱は収まらず、とうとう仕事にも熱が入らず寝込む羽目になってしまった。そこへ近所の医師竹内先生が心配して「そういう事なら先ず10両貯めなさい。そしたらわしが太夫に会わせてやるから」と請け負ってくれた。染物屋の主人吉兵衛も「あの先生は医者の技はイマイチだが、その道は一流だ」と太鼓判を押した。それを聞いて途端に元気を取り戻した久蔵は、それから喰うものも喰わず、寝る時間も惜しんで働き金を貯めた。その金子3年間で9両、現代男子はいかに相手が好きでも、周りの情報が多すぎて続かない。親方吉兵衛に1両を足して貰い、着物もいっちょらを貸してもらい、いざ吉原へとなった。その道の通人竹内先生の段取りが功を奏して、目出度く高尾の合うことに成功した。先ずは第一関門通過である。久蔵は雲の上を歩いている心地であった。時間はあっという間にすぎた。高尾は別れ際「今度はいつ会えますか?」と聞いてきた。久蔵が高尾の心の琴線が触れたのである。久蔵の実直な態度がいつもの客たちと違うものを感じ、高尾からまた会いたい欲望に駆られていた。問われて言うのもおこがましいがと、久蔵泣きながら自分の正体を明かし、ここへ来るには3年も必死に働いて金を貯めた結果である。今度来るのはまた3年先になると涙ながらに本音を伝えた。高尾は目を潤ませながら何度も頷きこれを聞き、3年もの間、私の事を思い続けてくれたこの人なら、何があっても私を大事にしてくれる、私はこういう人と、将来一緒に暮らしたいと心に決めた。「私は来年3月15日になったら年期が明けます、そしたら主(ぬし)さんは私を女房にしてくてますか?」こうなったら月日のたつのは早い。約束の3月15日朝、店の前に駕籠が着いた。藍染めの着物に薄化粧した高尾が、これも藍色の風呂敷包みを抱えて駕籠から降りると、久蔵の顔を見つめにっこり微笑んだ。
紺屋高尾は元禄13年(1700)に初出、寛永7年(1710)請出された実在の実在の人物であるとされ、歴代高尾太夫のなかでも最も聡明な女性であったという。二人は親方吉兵衛の夫婦養子となり跡を継ぎ、手拭いの早染め「駄染め」を考案、その染めの早さと粋な色合いが、江戸の職人たちや新吉原へ通う人々の間で人気となり、通称「瓶覗き」とよばれ流行り、店は繁盛していった。二人の間には3人の子供もでき、紺屋高尾は80歳の長寿を終えたという。この瓶覗きという語源は、身を引いて久蔵と一緒に働いている、美人と評判の高い紺屋高尾を一目見ようと、江戸雀たちが店へ押し掛けたが、新しい女将さん仕事熱心でなかなかまともに顔が拝めないでいた。そこで雀たちは考えた。彼女が瓶を覗いてる間に、藍瓶の水面に映った顔見て納得して帰っていった。それでも働き者で、評判の美人をただで拝めるというので、後も切れなかったという。「江戸真砂六十帖」によると、実録は紺屋高尾は三浦屋の5代か6代で、彼女が結婚したのは大伝馬町1丁目の藍屋九兵衛、2人はのち築地采女ヶ原に茶屋を出し繁盛したとされている。落語の世界では、代々の三浦屋高尾は誠実な女たちが多く、この噺は元々、古代中国明時代の小説「売油郎独白花魁」が元ネタであるという。オチがなく話の内容を聞かせる演目であるが、そのサゲは「あの2人は死ぬまで一緒だろ、だってほら藍染が縁だから、愛(藍)しあうほどの深え仲だからな」となる。古今東西「傾城に誠なし」といわれたが、江戸新吉原に誠を貫いた男と女、2人の人間がいた。「傾城に 誠なしとは 誰かゆうた」
「出藍の誉れ」という語句がある。古代中国戦国時代古書「荀子一勧 勧学篇」に記載されている「青取二之、於藍一 而青二於藍一。青は藍より出でて藍より青し」という文言から生まれた言葉である。青という色は藍の葉から染められるが、染めあがった色は元の藍よりも青くなっているという事から、弟子が師より優れている例えとして使用されている。我が国の藍染めはタデ科の蓼藍が原料となっているが、凡そ20th前までは近くに生えている山藍を採取、そのまま布に摺りつけるという極めて原始的な方法(山藍の摺衣)で、青色を染めてきた。蓼藍の使用はBC4~5th頃、中国から伝来してからで、この頃の産地は播州播磨と京洛南、大正時代頃まで東寺南側に農作地があり、芹や九条葱と共に「京の水藍」と呼ばれ育てられてきた。藍は丈夫で汚れが目立たず、蓼特有の強い臭いを発生させるため、蝮や害虫から身を守ってくれるという利点がある。更に藍染の木綿は洗えば洗うほど色が冴えてきて、保温性も抜群であったため、伊達の薄着を誇る大工、左官など職人たちの半纏や胴巻、手拭いなどに愛用された。また、商家においても暖簾、風呂敷、座布団など、漁師の晴れ着姿にまで重宝された。因みに「藍色」は藍白(スカイツリーに使用)に始まって瓶覗き、縹(はなだ)色、水浅葱、新橋色、藍茄子ときて、留紺まで48種類がある。藍色は植物である藍に由来する色素から出来た色で、わずかに緑がかった青である。一方で「紺色」は紫がかった暗い青を示し、藍色系統では最も深い色とされる色、留紺は英名で「ネイビーブルー」と呼ばれる。
久蔵夫婦が働いていた「神田紺屋町」は、江戸初期、家康から関東一円の藍の買い付けを許された土屋五郎右衛門が紺屋頭としてこの町を支配したのが始まりである。高級な縮緬絹を染める染物屋ではなく、浴衣や手拭いといった大衆品をこの職人町は染めていた。広重「名所江戸百景第21景「神田紺屋町」に描かれている浴衣地の藍色は、天然の呉須ではなく化学合成された酸化コバルトで、中国経由で輸入された「ベロ藍」である。この風景画では風が微かに吹き反物を揺らしている。広重お得意の富士山はこの絵では赤い夕陽の手前に、控えめに顔を覗かせている。江戸時代この風景は神田紺屋町ではごく普通に見られ、藍染職人たちがこの空の下で働いていた。明治後期の風俗画報でも「神田紺屋町のさらし布は概ね手拭い染めにて、晴天の日にはいずれ晒されぬ家もなく、遠く之を望むに凬にひるがえりて、旗の如くまた幟の如くすこぶる美観なり」と描かれているため、少なくともこの時代までは、この風景は神田の町にあった。やがてきれいな水を求め、神田川上流の落合に移転していく事になる。次回は「玉の輿にのった榊原高尾」の物語です。<チーム江戸>
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