「吉原細見」べらぼうの名妓たち 1丹前勝山

 江戸物語<人之巻>「江戸を彩った女たち」 江戸の約6割を焼き尽くし、10万人強の人々が犠牲になった、明暦の大火、所謂「振袖火事」は明暦3年(1659)に発生した。これを契機に、後北条の元家来であったという庄司甚右ヱ門が立ち上げた「元吉原」は、既定方針通り人形町「芝居町」の東の地から、浅草寺裏浅草田圃へ移転していった。幕府公認の遊郭は全国に四つあった。ここ「江戸吉原」に、「京都島原」「大坂新地」そして「長崎円山」である。ここで働く女性たちは18歳から28歳までの10年間、苦界に身を沈めた。厳しい労働条件の下で、栄養失調から病気になっても医者にも診てもらえず、薬も与えられず、淋しく1人で死んでいった。記録が残る寛保3年(1743)から大正15年(1926)までの約180余年の間に、三ノ輪の浄閑寺に無縁仏として葬られたというよりも、正確には投げ込まれた新吉原の遊女たちは約25,000人に及ぶという。「生まれては苦界 死しては浄閑寺」の人生であった。この世界は昭和33年「売春禁止法」の施行まで約340年続いた。

 正保年間から明暦年間(1644~58)、神田四軒町堀丹後守3万石屋敷前、雉子町の北(現神田淡路町辺)に紀伊風呂と名のついた「湯女風呂」から、新生「新吉原」で活躍したのが「勝山」である。勝山は10代後半の若い頃、父親と喧嘩して故郷の武州八王子を飛び出し、紀伊国屋市郎兵衛が経営する丹前風呂に働きだした。湯屋は江戸では「ゆや」「ゆうや」京、大坂では「風呂屋」といい、そこで働く女性たちを湯女と呼ぶ。湯女風呂は七っ(pm4:00頃)で終り、その後は湯女たちは着物に着替えて遊興に加わった。通称、丹前勝山は器量がよく小唄や三味線も上手かったため、湯女風呂世界でも人気者になった。勝山は単なる美人というだけでなく、男装の麗人として江戸っ子たちに人気があった。この勝山を一目見ようと江戸っ子たちがおしゃれをして着飾ったのが、今でも旅館などに出される丹前=褞袍(どてら)である。丹前とは当時、旗本奴たちの間で流行った、綿入れした防寒用の広袖の長着である。勝山が考案した派手な縞柄の丹前は、仲間の湯女たちを始め、そこに通っていた旗本奴たちも、それを見て真似するようになり世間に流行り始めた。更に勝山は、享保5年刊の「洞房悟園」に、「勝山優れて流行りたる女たり。外出時には寛永の頃流行りたる女歌舞伎などを真似して、袖口の広い衣装に袴をはき、玉ぶちの編笠に木太刀の大小を落として、小唄を唄いながら往来を闊歩した」と記されている。また。井原西鶴の「好色一代男」でも「勝山といえるおんな すぐれて情も深く よろずにつけて世の人にかわりて 吉原に出世して不思議のおかたにまでそひぶし ためしなき女」と紹介している。こうして勝山は話題になり,超売れっ子スターになっていった。

     この状況を憂慮した幕府は、公営「元吉原」からの苦情もあり、江戸市内の風呂屋1軒につき3人以上の女たちを置くことを禁止した。しかし、それも守られなかったため慶安元年(1648)女たちを置くことを全面的に禁止した。承応2年(1653)6月になると、旗本奴と町奴が博打の事から大喧嘩となり怪我人がでる事件が起き、2軒の湯女風呂が営業停止処分になった。この事件が湯女風呂を廃止する絶好の口実となって、湯女たちは新吉原では最下級の「やっこ女郎」として送りこまれた。多くの湯女たちが送り込まれるようになって、絶対に客を振らない「散茶女郎」と呼ばれ、新吉原では最下級の女郎として無償で働かされた。そこへ江戸2丁目の遊女屋山本屋が勝山をスカウト、「太夫」として抜擢デビューさせた。これが同年8月、騒動から2ヶ月後の事である。勝山は太夫として新吉原にデビューした。初めての勝山の「花魁道中」の時には「吉原五町中の太夫、格子、名取などが勝山を見んとして、仲町の両側に群り居たりける」という騒ぎとなった。勝山は新吉原でも一躍スターとなった。当時この世界のスターには、三田塵塚の「お松」舟饅頭の「お千代」本所吉田町の「一とせ」内藤新宿富貴桜の「お倉」たちがいた。因みに四都の遊女の特徴は俗に「京島原の女郎に江戸吉原の「張り」をもたせ、長崎丸山の衣装を着せ、大坂新町の揚屋にて遊びたし」といわれたが、江戸吉原の張りという言葉は勝山が元祖ということになる。大名、豪商たちに迎合することなく、意地と度胸を示すこの世界のほめ言葉となった。気っぷのよさ鉄火肌の伝統は、後の深川辰巳芸者に引き継がれていく事になる。

    花魁道中とは、従来五丁町に分散していた揚屋(遊客に座敷を提供して遊女を斡旋する業者)を一ヶ所にまとめて揚屋町(大門をくぐり抜けて右側、江戸町1丁目と京町1丁目の間)としたが、そこ若しくは引出茶屋へ馴染みの客を太夫が置屋から迎えに行くことを指した。勝山の花魁道中の所作は、大名行列の先頭をいく奴たちのように威張った歩き方で、腕を大きく振って大股開きで道一杯に歩く「外八文字」であった。これは片ひじを張った左手を脇にあて、もう一方の手で拍子をとり、足を外側に踏み出し、ちょいと横に行くような形からすっと戻す、逆八の字を書くような歩き方である。京島原の道中は、御殿風に内股にすいと半円状に足を回す、元吉原では当初それを真似ていた。勝山が考案した外八文字に足を踏み出すことで、緋縮緬(湯文字)と白いふくらはぎの対象美が強調された。その濃艶さは勝山の巧みな演出であった。歌舞伎界でも勝山の評判を聞き、その所作を舞台に取り入れた。「御法(五法)破りの無法(六法=方)」という次第で、歌舞伎十八番「安宅」では、弁慶が見事論破して関所を通過、その喜びを花道で手足を天地前後左右、六方向に振りかざして(六法を踏んで)表現して大当たりを取った。勝山が考案したもう一つのヒット作品に「勝山髷」がある。花街で襟を大きく抜くのは、かつらの束に襟が当たって形が崩れるのを防ぐためであり、胸元を大きく開くのは、鎖骨を見せ色ぽく見せるためである。さて、勝山髷の結い方は後ろの髪を束ねて長くして、根元から白い元結で巻き立て、その先端を頭のてっぺんに持ってきて簪で留めるものである。男まげを真似た片まげの伊達結びで、手変わり風変わりな結び方であったが、これも一世を風靡した。また、緋色の2本の鼻緒の下駄の考案などもヒットした。こうしてカリスマファションリーダーとなった勝山は、程なくして姿を消した。好きな男に引かれ、しっかり専業主婦になったものと江戸雀たちは噂した。こうした女性は何処の世界にいっても、しっかりモノをこなす頼れる女性となる。次回「吉原細見」は新吉原三浦屋の太夫たちです。   <チーム江戸>

 

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