8 女たちの元禄忠臣蔵 ②

 堀部さち・大高源吾、竹林唯七の母・間新六の姉

 <堀部安兵衛妻さち>堀部安兵衛の父は越後新発田藩で200石の藩士であったが、失火事件を起こして蟄居し死去した。安兵衛は親戚の家に預けられたが、19歳になると江戸に出て、牛込天竜寺跡の竹町(新宿区納戸町)に住み、小石川天神下の堀内道場に入門した。めきめきと腕を上げほどなく免許皆伝、四天王になった。ここに一緒に討ち入りをした奥野孫太夫もいた。また、西条藩士菅野六郎左衛門と知り合い、叔父、甥と呼ぶような昵懇の間柄になった。元禄7年(1694)ふとした争いで義理の叔父菅野が高田馬場で決闘となった。竹町でこの知らせを受けた安兵衛は、呑みかけた盃を投げ捨て、おっとり刀を掴んで馬場へ駆け出した。現在、ここから馬場へは徒歩約30分程の道程である。慌てため、袖を括るたすきを忘れてしまった。そこへ居合わせた赤穂藩士江戸留守居役堀部弥兵衛の娘さちが、着物の赤緋縮緬のしごきを安兵衛に投げてきた。「これを使いなさい」映画、テレビでもさち役はシャキシャキした女優たちが演じている。御本人も江戸っ子タイプの生きのいい女性であったと思われる。黒い羽織に赤いしごきは絵になった。さちの応援が効き見事助太刀成功、中山安兵衛一躍スーパースターになった。安兵衛の生き方、腕前に意を得た弥兵衛は、是非ともさちの夫に、我が息子にと行動を起こし始めた。初めは逃げていた安兵衛であったが、中山姓のままでという弥兵衛の熱意に負け、さちと祝言を上げた。男心に男が惚れたのである。堀部安兵衛の誕生である。

 夫と共に両国橋米沢町の借家で新婚生活が始まった。しかし、人生いい時間はあっという間に過ぎてゆく。安兵衛夫婦も例外ではなかった。元禄14年(1701)3月14日、突然夫が仕える播州赤穂浅野家の殿様が、殿中で刃傷に及んだというのである。それからの夫は忙しかった。亡き殿の敵上野介を討ち取るため、赤穂に出向いて内蔵助殿と掛け合い、調整に江戸にやって来た同士たちを説き伏せたりと、討ち入り急先鋒の一人として活躍した。それでも二人きりになると優しい夫に戻ってくれた。このsweetな生活も「円山会議」までであった。討ち入り決行が決まった会議以降、夫安兵衛は決意をなお一層強固なものとした様子で、私を米沢町に留め置いたまま、林町5丁目の借家に一人引っ越してしまった。女の私がいてはいざという時、気持ちが崩れると思ったのであろうか。また、私から機密が漏洩するとでも思ったのであろうか。何を馬鹿な事を。私だって武士の娘、いざ討ち入りになってもハッキリしないような男だったら、私の方で尻叩いて追い出してやるわ。

 元禄16年2月4日 46士切腹。4月からさちは父金丸弥兵衛の後妻わかと共に、わかの実家二本松丹羽氏の家臣忠見家に身を寄せ、しばらく藩主の正室冷台院に仕えたりしていたが、10月正室が亡くなった後は身をひいていた。しばらくして弥兵衛の甥の言真が、肥後熊本藩細川家に召し抱えられることなり、さちとわかも熊本へ同道、熊本でさちと義理の母親と生活が始まった。世話しい江戸下町を離れ、男っ気のあった夫も父親もいなく、勝気なさちにとっては熊本の田舎暮らしは物足らない日々であったが、住めば都、なかと自分の健康だけが心配してさえしてればいいといった安穏な生活が続いた。享保5年(1720)5月25日 熊本で死去、46歳、元禄を代表する娘がまた逝った。「さちといへど 身には幸なき人の名の ちとせの後も 朽ちぬぞさち」と戯れ歌が残った。尚、46士切腹後、安兵衛の妻と称する女姓が泉岳寺の近くに庵を結び、浪士たちを供養をするようになった。その女姓は僧侶となっている叔父の元へいき、戒を授けてもらい「妙海尼」を名乗り、浪士たちを弔いながら91歳で死去、泉岳寺に葬られた。安兵衛の妻さちは肥後熊本で亡くなっているため、この女性は堀部家に何らかのゆかりのある女性ではないかと見られている。

<大高源吾の母・貞立尼>大高源吾は其角の高弟である水間涸徳門下の俳人で、号は「子葉」、浅野家では20石5人扶持の中小姓であった。子葉という号のイメージとは少しはずれ、容姿は芋面で亥の首であったというが、容姿がその人の資質を現すとは限らない。同じ家臣の中には冨森助右衛門(春帆)神崎与五郎(竹平)萱野三平が(涓泉けんせん)などがいた。また、其角派の桑岡の門人には、小野寺幸右衛門(漸之)岡野金右衛門(放水)がいた。浅野5万3千石の藩士は下級武士ながら都会的、知性的な俳風を好むIntelligentsiaが多かった。何故この様な知識人たちが討ち入りという、現代でいえば計算に合わない行動にでたのか。互いに持っているcontentsが共通がしていたからであろうか、また、知識人であるが故に、孝を捨て義に尽くすことが、自分たちが昇華できる最高の道だと考えたのであろうか。討ち入りの道を進んでいった源吾は、吉良邸の内情を探るため茶の宗匠山田宗偏の門に入り、上野介が確実に屋敷にとどまる日を丹念に探ぐっていた。情報活動の最前線で、その豊かな才能を発揮していった。元禄15年9月15日、自分が先立った後の老母の先行きを心配した源吾が、母へ送った手紙が残されている。大高源吾の母は京都留守居役小野寺十内の妹で、子のない兄夫婦に源吾の弟幸右衛門を養子にあげていた。「殿様御憤りを散じ奉り、恥辱をすすぎ申したく一筋で御座候。且つは侍の道をもたて、忠のため命を捨て、先祖の名を現し申すにて御座候。まことに誠に先立つ不幸の罪、後の世も恐ろしく存じ候へども、全く私事に捨て候命ならず、この罪お許しくだされ。ただただ兎にも角にも、深くお嘆き遊ばれず御念仏頼み奉候」と手紙を送り、「山を裂く 刀も折れて 松の雪」の句を添えた。亡き殿への忠義の道をつき進みながら、母の老後の心配が尽きない源吾がそこにいた。

<竹林唯七の母>唯七は明国からきた帰化人を祖先にもつ侍である。祖父孟ニ寛は秀吉が明国を攻めた「文禄の役」の際に、運悪く捕虜になり日本にやって来て、日本人と妻帯、広島藩で医師になった。唯七は孫にあたる訳であるため、quarterということになる。母親は長矩の乳母をしていたため、乳兄弟として育てられ、役柄は源吾と同じ中小姓、10両3人扶持、討ち入り時31歳であった。小姓は殿さまの身の回りの世話をする。ある日月代を擦っていた処、剃刀の柄が抜けそうになったので、唯七慌てて殿様の頭の上で柄を整えた。これには殿様もあきれ腹もたてたが、余りも幼児的なため笑って済ませたという。綱吉だったらこうはいかない、お役御免か悪くすると切腹かもしれない。こうした主従関係が刃傷後の家来たちの行動の判断の基準、迷わず討ち入りに進む環境になっていたことは否めない。長矩が即日切腹の知らせを聞いた母は、唯七を呼び「一命に代えても主君の仇を討て」と説き、別室で自刃して果てた。遺言には「吉良殿は主君の敵、母の敵」と認められていた。赤子の時から育てあげた男児が、何の評議もなく切腹させられ死んでいった。この片手落ちの裁定に対する抗議の死であった。唯七が泉岳寺に引き揚げた後、僧白明に所望されて残した漢詩がある。「三十年来一夢中 捨身取義夢尚同 双親臥疾故郷在 取義捨恩夢共空」自分の身を捨て両親の恩を捨て、殿への忠義を貫いたが、今となっては人生30年ひとつの夢の中の出来事であった。大高源吾の母への手紙と同じように、身体が衰え始めていた両親への憐憫、息子の男の優しさが切々と伝わってくる漢詩となっている。

<間新六の姉>間新六光風、討ち入り時23歳であった。父は喜兵衛、兄は重治郎、新六は二男である。親子3人で討ち入りに参加している。父親は古武士に見られる無口で実直な人柄で、2人の息子もこの父親にしっかり似た。たまに親子で酒を飲んでも、ただ黙々と酒を飲んでいる光景があった。新六は二男のせいか幼少の頃養子に出されたが、きかない性格であったか、養父との折り合いが悪く浪人となり、老中秋元但馬守家臣、中堂又助に嫁いでいた姉を頼って江戸へ出奔してしまった。優しい姉がいて、また理解のある義理の兄がいて良かった。姉たちは末っ子のきかない性格の弟を愛していた。新六はやがて刃傷事件を知り、討ち入りの噂を耳にして、内蔵助に帰参と討ち入り参加を願いでたがあっさり断られた。再度、安兵衛や孫太夫に頼みこみやっと許してもらえた。切腹の作法は通常三方の上に小刀が置かれている。その小刀を握るために身体が前に伸びる。その瞬間の首を打つことになるため、本人は何の動作もしない。新六は事前に口上を介錯人に伝えていた。新六が小刀を握り腹を横一文字に斬りたて処で首を打たれた。これを見た検視役は只々感服したという。46士の内ただ一人の正式作法によるものであった。遺骸は姉婿の中堂又助が引き取りに来てくれ、又助の菩提寺である本願寺に埋葬された。本人も凱旋コースの折、本願寺境内に槍に結びつけた幾ばくかの金子を放り込んでいるため、そのつもりであったことが伺われる。新六の墓は以前正門左側の木陰の下にあったが、現在は正門右の陽当りのいい場所の置かれ、東京市民の動きを見守っている。法名「釈宗真信士」こうした事情で泉岳寺には新六の墓はない。元禄16年、泉岳寺に葬られたのは45人。しかし墓石は48基が並んでいる。ひとつは新六の供養塔、もうひとつは討ち入り後、隊列から離れ瑤泉院や大学長広、広島の本家、同士の家族を廻って真実を伝え、晩年麻布曹奚寺で天命を全うした寺坂吉右衛門の供養塔、48番目は討ち入り間際に切腹に追い込まれた萱野三平の供養塔であるとされている。

「忠臣蔵の世界」は決して男たちだけの世界ではない。一人の殿様の短慮が引き起こしたこの事件は、侍のみならず多くのその妻、その母、家族を含めた女、子供までも犠牲にした。また、その犠牲を強いれられた家族たちが、男たちを支えた。女たちの男たちへの協力と理解なしでは、この事件の勝利は得られなかった。その事を忘れてはならない。<了>





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