8 女たちの元禄忠臣蔵 ①
瑤泉院・大石理久・小野寺丹
<瑤泉院>赤坂には赤穂浅野家の下屋敷と、三次浅野家の上・下屋敷、広島藩本家の中屋敷と四つの浅野家の屋敷があった。瑤泉院が嫁いだ先は阿久里の名の時代、赤穂浅野の鉄砲洲の上屋敷、刃傷後は落飾して瑤泉院と名乗り、赤坂6丁目の三次浅野家の実家で生活した。江戸歌舞伎「仮名手本忠臣蔵」の名シーン「南部坂雪の別れ」の「南部坂」は、赤坂2丁目と六本木2丁目の間の坂と南麻布4と5丁目の間の坂と、江戸・東京にふたつある。明暦2年(1656)現在の赤坂氷川神社に屋敷を構えていた、陸奥盛岡藩南部家中屋敷と、現在の有栖川記念公園に屋敷を構えていた三次浅野家下屋敷が、相対替=等価交換となった。それまで屋敷の脇の氷川坂から南東側の坂を「南部坂」と呼んでいたが、この移転により南麻布にも「南部坂」が誕生した。赤穂浅野家と三次浅野家の下屋敷は現在の同じ場所、江戸の頃も殆ど変わらないが「氷川坂」を挟んで、東側に浅野家、西側の氷川神社境内に三次家の下屋敷があり、この屋敷から歩いて5分程の南東部が、勾配のきつい南部坂である。三っの位置は逆三角形の位置にある。南部坂は余りの勾配に歩くのが困難を極めたため、明治の頃は「難歩坂」と呼ばれていた。因みに三次浅野家は広島藩初代藩主浅野長晟(豊臣政権で奉行を務めた浅野長政の二男)の子、長治が分家して初代となるが、4代5代と続けて世継ぎに恵まれなかったため、享保5年(1720)断絶、8代吉宗は享保15年、ここに赤坂氷川神社を鎮座した。勿論赤穂浅野家下屋敷も刃傷事件により、元禄14年に公收されていた。
元禄15年(1702)12月14日(15日とあるのは当時明六つまでをその日と勘定したため)の討入の前日に、内蔵助が討ち入りの報告と血判状を持って、三次下屋敷にいた瑤泉院に暇乞いに訪れたが、吉良の間者と覚しき女中がいたため、真実を伝えられなかった。内蔵助は話をのらりくらりと躱して、血判状を旅日記と称して届け屋敷を退出、無念の想いで南部坂で瑤泉院と今生の別れをするという、名シーンが赤坂南部坂である。この脚本は明治期になって書かれた河竹黙阿弥ものであるが、内蔵助が討ち入る半月程前に、今まで預かっていた瑤泉院の化粧料の決算書を、三次浅野家用人落合与左衛門に討入前日に報告している。この事柄が題材になって「南部坂雪の別れ」が創作されたものと考えられている。
阿久里は寛文9年(1669)備後国三次藩浅野長澄の次女(三女)として誕生、延宝5年(1677)9歳で播州赤穂藩浅野長矩と婚約、天和3年(1683)15歳で婚姻、長矩とは7歳ちがいの「いとこおば」の関係になる。元禄8年(1696)子宝に恵まれなかったため、義弟大学長広を養子としている。これはこの年長矩が痘瘡を患い一時危篤状態に陥ったため、急きょこの措置がとられた事による。元禄14年(1701)3月14日刃傷事件、16日阿久里は赤坂今井町(現港区六本木2~4丁目)にあった、三次浅野家の実家に引き取られ、落飾して瑤泉院を名乗り、正徳4年(1714)6月3日、この屋敷で46歳で淋しい人生を閉じた。阿久里の実家三次は広島からは「芸備線」福山からは「福塩線」に乗り換えて、中国山脈の真ん中にある盆地である。それより北は「木次線」に乗り換えて宍道湖、「三江線」に乗り換え江津、共に日本海の地である。三次市には浅野長春が建立した圓源寺に、瑤泉院の像と47士の木像が祀られている。
<大石りく>りくは理久とも書く。りくは実家豊岡から和田山を過ぎ、生野を越えて但馬から播州赤穂へ輿入れしてきた。この海辺の町は春が早く暖かかった。赤穂へ入る国境の峠には、夫となる内蔵助が馬に乗って迎えに来ていた。内蔵助は普段無口な男であったが、そういうことは優しい人間であった。花が見頃をむかえた山桜の大木の向こうに、赤穂の城と町が見渡せた。その向こうは青々とした瀬戸内の海が広がり、実家豊岡にはない拡がりがあった。ここが私の住む町だと思うと、りくはこの風景がいとしいものにみえてきた。二人の婚儀はお互いの曽祖父が決めたもので婚姻はそれから10年以上もたっていた。内蔵助は長すぎて長すぎて困ったと新しく妻となったりくに告げた。私のために10年以上も待っていてくれた内蔵助に対し愛しいものを感じた。内蔵助の母親は熊といい、細面で外見はおとなしそうであったが、ざっくばらんなとこがなく、打ち解けにくい感じだった。代わりに内蔵助の末弟喜内は、りくよりも2歳年下のせいもあってすぐに打ち解けていった。りくが大石家に来てからは家の雰囲気も明るくなり、実家の両親が花好きなせいもあって、庭も見違えるほどに綺麗になっていった。元禄元年(1688)長男松之丞が産まれた。松乃丞は討ち入りのちょうど1年前15歳で元服、大石主税良金を名乗る。成長して背丈は母親と同じく5尺7寸≒173㎝、内蔵助は5尺2寸、父親より常に頭ひとつ抜きん出て、当時としては巨漢であった。加えて頭脳、胆力も親には負けていず、同士中最年少であったが、討ち入りから切腹まで豪胆沈着であったとりくにも伝えられたが、母親としてそれよりももっと傍にいて欲しかったとりくは泪した。
元禄6年12月、備中松山藩水谷家が改易となり、城請け取りの役目が浅野家に命ぜられた。大名家において相続の嗣子がない場合、その家は取り潰され遺領は召し上げられるのが決まりである。この時から内蔵助はしばらく家に帰って来なかった。結婚以来1番長い別居生活であった。あれから7年、今度は自分の藩が同じ運命にさらされた。城請け渡しで手腕を発揮した内蔵助は、今度は逆の立場になりその名声を踏襲する道を選んだ。播州赤穂浅野家は豊臣政権で奉行を務めた、長政の3男長重が初代、2代目長直の時、常陸国笠間から5万3千石の赤穂に転封されてきた。内蔵助の父、京都留守居役をしていた良昭が亡くなったのは34歳、内蔵助は父の跡を継いで国家老に就いた。昼行燈の生活を赤穂の殿様は長くはさせてくれなかった。元禄14年3月、突然の早駕籠は殿の刃傷を知らせ、2度目の早馬は殿の切腹、領地没収を知らせてきた。一体何が起きたというのだ。内蔵助はその解答が見いだせなかった。
りくは5月赤穂の屋敷を明け渡し、しばらく実家の但馬豊岡藩京極甲斐守の筆頭家老を務める、父石束源五兵衛の屋敷に子供たちと一緒に身を寄せていたが、7月に内蔵助が京山科に家を手当てしてくれたのでそこへ移転した。赤穂の屋敷も良かったが、山科では家来たちを返し家族水入らずの生活となったため、子供たちは伸び伸びと生活していた。元禄15年4月15日、内蔵助は長男主税を手元に残し、りくと他の子たちわ再び実家豊岡に帰した。更に遺族に連座がおよばぬようにりくと絶縁した。身重であったりくは7月5日、石束家で三男大三郎を産んだ。夫、長男主税がこの世から去り、1人で残された子供たちを育て上げた。長女久宇と次男吉千代は若くして死に、次女るりは浅野一族の人間と結婚したがその娘が早逝、三男大三郎は6代家宣の恩赦により、父、兄の功績をもって広島本家に、父と同じ石高1500石で召し抱えられたが一人目の嫁と離婚、外に子供を作っては家の中に騒動を持ち込み、嫁とは常に口論が絶えず、りくの話を聞く器量もなく2度目の妻も破局した。何事においても父親のように上手に捌けない3男であった。りくはこうした家に一緒に生活する事に辟易し、出家してこの屋敷から出ることにした。息子は相変わらず面子が潰れるとか御託をならべたが、りくは「何を今更、お前の面子はとうに潰れています」と取り合わなかった。こうした事情でいずれもりくの血脈は残されなかった。元文元年(1736)11月19日、りくは経机にもたれたまま、苦しみもせず68歳で内蔵助の待つあの世へ旅立っていった。法名香林院。その母の墓に並んで1年遅れで死んだ大三郎の墓が、国泰寺の墓所に建ち、共に広島市を見下ろしている。
<小野寺丹>夫小野寺十内秀和とは共に歌道が堪能であり、小さな胡瓜を辛子酢味噌であえた一品は、丹の得意料理のひとつであった。丹は明暦2年(1656)浅野藩武具奉行灰方佐五右衛門の娘として誕生、丹19歳、十内32歳の時結婚。十内は50代で京都留守居役に就いた。浅野家京都藩邸は弘光寺東洞院東入ルにあった。諸大名は領国の他に、幕府と将軍への忠誠の証として江戸に藩邸を置き、正夫人と世継をここに住まわせ、本人は江戸と領国を1年毎に行き来した。徳川幕府の本拠地は江戸、日本の首都は天皇がおわす京都であった。王城の地が京都であり、諸国の物産の集散地が大坂であった。朝廷や公家との外交交渉や、屋敷を護る役職が京都留守居役であった。この役職は京の文化に造詣が深く、しかもしたたかな公家たちを相手にするため、藩内でも才能に優れ、人柄が良くそれと知られた人物でなくては役目は務まらない。十内は儒者伊藤仁斎の指導を受け、四書五経に詳しかった。十内がなる前は内蔵助の父大石良昭がこの役目を務めていた。この夫婦には実子がなかったため、十内の姉(貞立尼)の息子幸右衛門を養子に迎えていた。その兄が大高源吾、甥は岡野金右衛門、従弟の間瀬久太夫とその子の孫九郎、久太夫の姪と一緒になった中村勘助も討ち入りに参加、先祖を同じくする田川一族から47士のうち、最多の7名を輩出していた。小野寺十内は原惣右衛門、吉田忠左衛門らと共に内蔵助に協力、浪士たちを束ねていった。
丹は夫と和歌のやり取りをしながら、京都で静かな生活を送っていた。しかしあの日を契機にその生活は一変した。わが殿浅野内匠頭長矩が何と殿中松の廊下で、指南役吉良上野介に刃傷に及んだのである。何としたことか。丹には訳の分からない事であった。いかに吉良殿が姑息で、意地の悪いお人であったにせよ、それは仕事上の問題、自分の仕事であればそれをこなすのが自分の役目、それを自分の感情にそぐわないとはいえ、刃傷に及ぶとは何と浅はかなことか。女であっても自分が大切な仕事を必死でこなし、その後で身を引くであろうと丹は考えた。それを敵方に中途半端な仕打ちで終わり、挙句の果てに即日切腹、御家断絶とは、わが殿は何を考えその行為の及んだのであろうか。女の私には幾ら考えても訳の分からぬことであった。
刃傷事件が発生した元禄14年3月、十内は59歳であった。「われらは存じおりの通リ、当家の始まりより小身ながら、今まで100年御恩にして各々養い身暖かに暮し候、かような時にうろたえてはお家の傷、一門の面汚しも面目なく候ゆえ、武士の義理に命を捨てる事は是非もない。節にいたらざれば潔く死ぬべしと確かに思い申し候」とし、我が母上余命いくばくもないので、臨終を見届けてやって欲しいと取りあえず金10両を同封、老母を抱えて苦労するであろう若妻に、いたわりの言葉をかけている。こうした状況を察知したのか、老母は討ち入り前に亡くなった。元禄15年12月14日の討ち入り当日、十内は「わすれめや 百に余るとしをへて 仕えし代々の君か情を」と妻に辞世を送った。丹は細川家に預けられていた夫に「筆の跡 見るに泪の時雨きて いいかえすべき言の葉もなし」と書き送り、誰の話し相手も無くなった自分の淋しさを訴えた。丹は夫の切腹の知らせを聞いて間もない頃「何を見て 何をよすがに生きんいま はらはらと桜花散る」と詠んだ。家族すべてを失い、討ち入りに加わらなかった実の父親からも義絶され、天涯孤独となった丹は生きる全てを失っていた。翌年夏、夫や息子幸右衛門、大高源吾ら縁者の供養を済ませた丹は、京都西方寺に供養塔を建立、本圀寺の塔頭了学寺に参籠、49日の法要を済ませ食を絶ち、元禄16年6月18日、夫や家族の待つあの世へ旅立っていった。享年48歳、墓は日蓮宗本圀寺久成院の北にある。法号「梅心院妙薫日惟信女」。「つま(夫)や子の 待つらんものをいそがまし 何かこの世に思いおくべき」ここにも夫や子たちを支え、静かに生活を送っていた忠臣蔵の犠牲者がいた。夫十内は「里龍」という雅号をもっていた。妻丹の間に歌を交えた往復書簡「涙襟集」が幕末出版され、夫婦の日々の生活を忍ばせている。
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