②太田姫と道灌山

「なに姫が疱瘡だと」道灌は侍女からその知らせを聞いた時、目の前が真っ暗になった。疱瘡といえば、下手をすれば命とり、仮に一命を取り留めても全身にあばたが残る重篤な病であった。「何とかしなくては」常に冷静沈着であったが、此の時は父親道灌になって、落ち着きを無くしていた。「殿、山城国に疱瘡を抑える神社があるそうです、その神様へ祈願しては如何ですか?」「そうしよう、わしが江戸を離れる訳にいかんから、すぐそちが出向いて祈願してくれ」一口(いもあらい」の里にある稲荷神社に、娘の平癒を懸命に祈願した。その甲斐があってか、太田姫は快方にむかった。道灌はこれに感謝、喜び、これを契機に、長禄元年(1457)山城国の一口稲荷を江戸城内に勧請した。それから江戸は暗黒の150年が過ぎた、慶長11年(1606)家康は、一口稲荷を江戸城拡張の為、城の鬼門にあたる神田川右岸に遷座した。現在の聖橋南詰の東側、淡路坂の上の辺りである。さらに昭和6年、国鉄のお茶の水駅拡張工事により再び遷座、現在の場所に「太田姫神社」として祀られている。現住所駿河台Ⅰ-2-3は、ニコライ堂の斜め後方と明治大学校舎の間に位置している。

 「いも」という言葉には「あばた」「痘瘡」と云う意味があり、それらの治癒を祈願する神を疱瘡神と呼んだ。この神に因んで「一口、芋洗」の地名が発生したといわれている。千代田区内の「一口坂(いもあらいさか)」は靖国通りから新見附橋に下る九段北3と4丁目の境にある。また、神田駿河台4丁目の淡路坂の別称は「一口坂」と呼ばれた。また、港区では「芋洗坂」と呼ばれた。毎年秋になると近くの村から馬に芋を乗せ、朝日稲荷の辺りで毎日市を開き芋を売っていたため、こう呼ばれるようになったという。「疱瘡(天然痘)」は、医学界では「痘瘡」というウイルスにより飛抹、接触を介して感染、皮膚や粘膜にびらん、水泡が生ずる自己免疫性の疾患である。1789年、ジエンナーによる種痘の開始から改良が加えられ、1980年WHOは世界根絶宣言を出している。一方、江戸時代乳幼児の生存率を低下させ、平均寿命を短くした「麻疹(はしか)」は、ウイルスにより空気感染し、10~20日の潜伏後、発熱、咳、おう吐を伴い39℃以上の高熱を発し、全身に発疹が生じる。妊婦が感染すると流産、早産の危険もある。これに似た疾患に「風疹」がある。風疹は3~5日で消失してしまうため「三日はしか」の名がある。稀に成人が羅患すると小児より重い症状となり、高熱の為、脳障害の危険が発生してくる。話は痘瘡に戻るが、当時死亡率は80%台であった痘瘡に3代家光も感染した。祖父家康が一口稲荷を江戸城外へ遷座したためか、家光が元々ストレスなどにより子供の頃から軟弱であった事などから、26歳の寛永6年(1629)に羅患、伊勢神宮に祈願したり、春日局の看病や疱瘡神は赤い色が嫌いだから等と城内は大騒ぎとなった。因みに会津若松の「赤ベこ」は、子供が疱瘡に罹らないよにとの親の願いを込められた玩具である。故もって江戸時代を通して「痘瘡は見定め 麻疹は命定め」と、全ての人々から忌み嫌われた。

 道灌が築いた江戸城は、平安末期、江戸氏が居館を構えたのが始りとされる。室町時代に入ると江戸氏の勢力が衰退、康生2年(1456)関東管領扇谷(おうぎがやつ)上杉氏の家宰職、大田氏長(道灌は入道してからの号)が江戸城着工、長禄元年(1457)完成。「我が庵は松原続き海近く 富士の高根を軒端にぞ見る」と日比谷入江の西岸に立地、この辺りは祝田村、宝田村、千代田村などという地名であった。文明18年(1486)道灌は暗殺される。大永4年(1520)後北条氏が江戸城を奪取、北条氏の支配は天正18年(1590)秀吉による小田原城陥落まで続く。この年の八朔に家康入府、4代にわたる天下普請により城郭は完成、江戸260余年の時代となっていく。

 江戸の鬼門に薬草が生い茂り、秋になると虫がすだく小高い山があった。道灌は江戸に城を築くにあたって、この山に何度か足を運び地形を確かめていた。古くは日暮里から田端の丘一帯、江戸期は谷中台から北の王子へ続く台地で、この台地が狭くなり小高くなった丘陵地が道灌の江戸の砦、後世「道灌山」と呼ばれる地である。ここからは日光連山や筑波の山々が望め、下総国府台が隅田川越しに霞んで見えたという。現在の荒川区西日暮里4丁目辺りである。縄文時代の遺跡が発見されており、縄文海進の頃には、既に古代人の集落があったことが伺われる。また、地名の由来については、道灌の砦城の跡であるとか、谷中感応寺の開基道観坊の屋敷跡からともいわれるが、いずれもその由縁には確証はない。「江戸名所図会」によると「詞人の今客ここに来りて 終夜その清音を珍重す、特に秋の頃は松虫、鈴虫、露にふりいで清音をあらわす。依って雅客幽人ここに来り、凬に詠じ月に歌うてその声を愛せり」とあり、秋は「虫聴き」の名所として知られた。虫聴きとは、秋の夜野山に出て松虫、鈴虫など虫の鳴き声を楽しむことであるが、平安の頃から始まった虫聴の趣味は、源氏物語のなかでも花見と同じく、宮廷生活の文化ひとつとして描かれている。江戸の頃になって特に盛んとなり、花見、月見、菊見、雪見、と共に庶民の五つの風流とされた。道灌山には松虫多く、飛鳥山には鈴虫多かれし といわれた。現代では向島百花園、彦根城や京都の寺院で虫聴きは、月見や茶会などと併せて行われている。さて江戸になり十辺舎一九は、「日暮の里」は寺社が競って庭園を造り、台地全体が一大庭園のようで「桃桜鯛より 酒の肴には見処多き日暮の里」だと記している。子規は明治になり「稲の花 道灌山は 日和かな」と詠んでいる。現在、日暮里駅西側の谷中へは「夕焼けだんだん」の階段があり、お天気のいい日は真っ赤な夕陽が眺められ、霊峰富士も眺められた。西日暮里駅西側は西日暮里児童公園となり、公園の崖は昔の道灌山の一部であり、道灌山幼稚園、中学校がある。また、道灌が築いた江戸城、徳川時代の天守台跡に、明暦の大火で炎上崩壊した天守閣再建案もある。江戸の浪漫は現代に甦るか。<了>

                


   





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