江戸物語88<人之巻>第1章江戸を彩った女たち 1道灌が愛した二人の女①山吹の里と紅皿

 懐かしい路面電車、最後の都電荒川線を三ノ輪から乗り、王子を過ぎ、ババの原宿、巣鴨庚申塚を楽しみ、終点早稲田に着く手前の神田川沿いに「面影橋電停」がある。春が来ると、川沿いの櫻が満開になり、花びらが川面に花筏を彩なす。それを優しく受け止める様に「山吹の花」が咲いている。山吹はバラ科ヤマブキ属の植物で、別名面影草(オモカゲグサ)と呼ぶ。春になると赤味のある黄色の花が咲き、その枝がしなやかに揺れる様子から古名は「山振り」と呼ばれた。この名が転訛して「ヤマブキ」になったとされる。花言葉は気品、崇高、金運となっている。江戸時代の小判の色は山吹色、御代官様と越後屋が滅法好きな色であった。

 道灌はある晴れた春の日、領内の偵察を兼ね猟に出かけた。朝雲ひとつなかった青空に、俄かに暗雲が立ち込めてきた。男心(女心?)に春の空である。大粒の雨に見舞われた道灌主従一行は、近くの農家に逃げ込んだ。「蓑を貸してはもらえぬか」出てきた娘は今年16歳になる紅皿という娘、扇の上に山吹の枝を載せ「蓑(実の)ひとつだに」と差し出した。 道灌面喰った。山吹には実を付ける株と、実を付けない株がある。七重八重とこの歌を詠んだ作者が、それを知っていたかは定かではないが、古えの時代、中国から山吹を持ち帰った際、花は見事だが実を結ばない八重咲きの株と、実はつけるが花が見映えしない一重咲きの株の双方を移入した。各地にはやはり実をつけない、見映えのいい山吹(株分けで増やす)が広がっていった。道灌が受け取ったのは見映えの良い方であった。現代でも見映えのいい女性が持て囃される。人も花も同じ運命であろうか。しかし、最近では見映えも画一的で、実のない傾向だけであるのは残念である。さて、山吹の花に話を戻すと、当時まだ和歌の素養に欠けていた道灌は「山吹の 花だが何故と 太田いい」、ついにこの所作に怒り「大たわけ 是が雨具か ヤイ女」と、ずぶ濡れになって帰っていった。この事を早速老臣に伝えると「殿 それはちと早計でしたな。歌の意味が解っていれば怒る事でもなく。かえってその風流心を誉めるべきです」と諭された。その問題の歌とは「七重八重 花は咲けども山吹の 実のひとつだに なきぞ悲しき」後拾遺集に収められた兼明親王の作である。これを契機に道灌、啓発され紅皿を城に呼び、和歌の猛特訓に励み「雨宿り から両道の 武士となり」と、武道と教養を備えた武士に成長していった。一方紅皿は長く道灌に仕えたが、道灌が暗殺された後は、出家して尼となり、天台宗大聖院(現新宿区東大久保2丁目にあり、この参道を山吹坂という)に庵を結び、道灌の菩提を弔いながら一生を過ごしたという。ここが紅皿の墓だと云い伝えられている。さて、紅皿が道灌に差し出した(このふたりの像は新宿中央公園にある)「山吹の里」はいくつかにある。神田川面影橋から新宿区山吹町にかけての一帯。「江戸名所図絵」によると、高田馬場の北側の住宅地の辺り(新宿区早稲田、山吹町や豊島区高田)、荒川区町屋付近、埼玉県越生町などが伝承の地とされている。いずれも道灌が支配を争った他の武士団との境界地域である。高田馬場の地域は豊嶋氏との境界部分である。豊嶋氏は江戸氏らと共に関東秩父平氏の名族で、武蔵の国豊嶋郡(現練馬、板橋、北、豊島区一帯)を拠点として治承(1177~80)、承永の乱(1182)では、頼朝の武蔵入国を助けている。

 路面電車が大きくカーブして、神田川にかかる辺りに「面影橋」が架かっている。現在の新宿区西早稲田3丁目と豊島区高田2丁目の間に流れる神田川に架かる橋であるが、この橋を渡り目白台への道筋は、家康入府以前の古街道、奥州街道であり下には関所があったという。現在は名称に似あわずシンプルな造りの橋であるが、古は「俤の橋」と書き、「姿見橋」とも呼ばれた。安政4年(1857)発行による尾張屋版には、姿見の橋、後年の面影橋となっている。「昔は此橋の左右に池ありて 其の水よどんで流れず 故に行人覗き見れば鏡の面に相對するが如く 水面湛然たる故に名とする」とある。この面影橋、名の由来はいくつかあり、業平が自分の姿を水面に映したからとも、家光が名付けたとも、自分の運命に嘆き「変わりぬる 姿を見よやと行く水に 映す鏡の影に恨めし」と詠んで神田川に入水してしまう「於戸姫伝説」からきたともいわれる。また、「面影橋」か「姿見の橋」かについても諸説ある。この二つの橋は同じ橋だとする説と、いや別々の橋であるとする説にわかれる。広重「名所江戸百景」第五十八景「高田姿見のはし俤の橋砂利場」によれば、手前に大きな太鼓橋と遠景には小さな橋が描かれている。どちらがどの橋かは定かではないが、ふたつの橋が描かれている。また、話は現代になるが、お馴染み「鬼平犯科帳」ではこの二つの橋、小説の三話に登場、それぞれ姿見橋と面影橋と別の名で江戸川(神田上水の中流部分)に架かる橋として登場している。また、現在では、中野長者の伝説から「小滝橋」を姿見の橋、その上流「淀橋」を姿見ずの橋としている。この橋名の由来は、柏木、中野、角筈、本郷の地境に位置する橋のため、「四所橋」が転訛して淀橋になったとされるが、ここの1丈8尺≒4,8mの水車を使ってペリー来航の黒船対策用の火薬を造ろうとして、爆発させたのは嘉永7年=安政元年(1854)、道灌が江戸に城を造った長禄元年(1457)から約400年後の事件である。「面影(俤)」と「姿見」、この二つの言葉は本来同じ意味をなす言葉である。この為ひとつの橋であったものが、混同され別の橋として扱われてきたものか、意図的に使用されてきたかは定かではないが、人々はそれぞれの橋の上で、自分たちの懐かしい人々の「お面影、温もり、想い」を見つけたに違いない。 (第2話 紅皿、太田姫につづく)

                 


   


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