8 江戸から続く「かかぁ天下」①

 江戸の町で、また現代でもよく見られる風景「かかあ天下」である。 江戸の町では「女は人の始まり」とされ、子供を生み育てる事が出来るのは女性であり、従って「主婦の座」というものは強かった。その例として、銭湯などでは男湯で(江戸期は長らく混浴が続いたが)亭主が自分の女房(かかぁ)の自慢話をし、その自慢度の高い亭主ほど、風呂場でいい場所を占めたと云う。また、江戸っ子たち庶民の家庭おいては、妻たちは「かか」もしくは「かかぁ」と呼ばれ、子供たちからは「おっかぁ」と呼ばれた。その頃の江戸の男女別、人口構成比は、初期男3vs女1、中期2vs1、幕末頃になってやっと対、evenとなった。従って「九尺二間に過ぎたるものは、紅のついたる火吹き竹」と詠まれるように、長屋住まいに来る女性たちは稀で、少々無作法であったが、生活力だけは旺盛で、どちらかといわなくても、亭主を亭主と思わない、自然と態度と口調がそうなってくる妻たち(かかぁ)が、多くなっていった。「今はただ 人柄よりも 稼ぎ柄」と、江戸の男たちは辛抱した。

 「江戸の女」というものは、上方に比べてみると威勢がよく、亭主より女房の方が一段と上位にいるように錯覚される。「江戸初期より中期頃までは、市中では男のほうが多く、女の方が少なかったために、自然と女が景気だってきて、威勢がいいんだろう」と、江戸学の先輩、三田村鳶魚は述べている。女の子にでも生れれば、器量がよければなおさら、少々造作が悪くとも、何か稽古でもさせて屋敷奉公に出せば「はく」がつき、その先は女である希少価値を生かして、嫁ぎ先はいくらでもあった。だから「江戸の女は、小娘の頃から気が強かった」と鳶魚先輩は云う。「亭主より 早く起きるなんざぁ 女の恥だぁ」とくる。

 戦国時代に生きた女性たちの結婚感、離婚感をみてみると、大名や郷士の娘たちなどは、家の為に権力者(当主)の都合によって、まるで道具のようにあちこちと、本人の気持ちは全くないがしろにされ、転々とさせられた。しかし、その女性たちも人間、意志をもち自分の生き方を考えた。夫と決められた男に寄り添い、仲よくしようと努め、実家や嫁ぎ先はそこそこに、自分と自分の子供たちを大事にしようと考えた.自分の子が男子なら次なる当主は我が子にしようと画策、「さすればわらわは殿の母上である。待っていた、苦労した甲斐があるというもの」。戦国の女たちは、自分の腹をを介して天下を狙った。悲劇のヒロインが、天下人の母になる可能性があった。安土桃山時代から江戸初期にかけて、日本に訪れた宣教師ルイス・フロイスによると、「ヨーロッパは罪悪については別として、妻を離別するという事は最大の不名誉な事であるが、日本では意のままにいつでも離別する。妻はその事によって名誉は失われないし、再度結婚も出来る」と記している。(日欧文化比較、岩波大航海時代叢書)

 戦国の世も終り、浮世になった江戸時代において、大名など諸候の妻たちの生活は、「御身みずからは日々の行事岐度定りたる事もなかりければ、朝は甚遅し、昼前には髪化粧済みかね、殊に(我が殿が)御在国、御留守などは一入(ひとしほ)御心儘に成り易し」と一日中勝手気儘に、江戸上屋敷で生活していた事が伺われる。こうした女主人に見習ってか、奥向に働く下女、半下と呼ばれた女中たちの手当ては、若党、中間の男性奉公人が半知(50%off)とされても丸々と頂いていた。ここでも「かかぁ天下」が徹底されていた。   「我が接いだ柿が実る頃 目には目がね 歯には入歯にてまにあえど」と、夫婦で老後を語る頃になり、可愛い息子に嫁がくるようになると、穏やかだった姑は、急に元気になる。さぁ私の出番がきた。可愛い息子を守れるのは母親の私だ、となる。          「婚礼の 夜は姑女の 笑い納め」「しゅうとめは 嫁の時分の 意趣がえし」と、今迄の恨み、つらみを息子の嫁に対し発散、アリンス国や小生意気な嫁には、板橋宿の縁切榎の粉を飲ませたりと「願わくば 嫁の死に水 とる気なり」と我然元気になる。その根気も意地もうすれ、そんなことはどうでもよい年頃になる「もうよしと 薬を飲まむ ハ十九」 江戸の妻たちの長い華麗な一生が終わる。この心境には、「咲いてから 盛りの長い 姥櫻」 を生きる現代の姑たちにはなれない。彼女たちの人生は巨人軍と同じく永遠なのである。

 落語の世界の妻(かかぁ)たちにインタビー。「お前さん、好きで一緒になったの」「いいや」「じゃどうして」「だって一人暮しは寒いんだもの」。江戸の男と女が共同生活、「かかぁ天下」になるきっかけは、亭主が暖房具代わりに成る事から始まった(仮説)。江戸の戸籍(人別帖)の調査は2年に一度、この間は誰と一緒にいようが、別れようが婚姻届を出す必要が無かった。(現代では半永久的にこの状態が続いているが)従って、風呂敷包みひとつ持って、自分の好きな方向、場所、男の棲み家に潜り込めば良かったのである。 江戸時代、隅田川に氷が張るほどの寒冷の時期が多かったため、安普請で隙間だらけの、九尺二間の冬期の一人暮しは、若い女性であってもつらい生活であった。江戸の厳しい冬場の寒さも、お互いの持っているそのパワーとその優しさで凌げたのである。長い冬が過ぎ桜が咲く頃になると、江戸の妻たち、その予備軍も含め、本来の「DNA]が甦り、「嘘よりも ハ町多い 江戸の町」に、新しい人生を見つけに飛び出していったのである。                       


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