8 江戸から続く「かかあ天下」②

 江戸の風景「かかぁ天下」は、ある部分江戸の男たちにとって、不満の種でもあった。宵越しの銭はもたねぇ、いや、もてねぇ彼らは外では粋とハリで通しているものの、九尺二間の御屋敷に帰ってては、何でも仕切ってくる我が妻「かかぁ」の存在は、煙ったいものの、反面、頼れる存在であった。現代でも続く江戸の風景「かかぁ天下」は、何を根拠にこういう次第になっていったものであろうか?この問題解決は人生最大の課題である。

 家康が長年住み慣れた駿府から江戸へ来たのは、天正18年(1590)八朔。その頃の江戸は地方の鄙びた寒村であり、何処といつて住むべき処もなく、とぃった状態であった。家康が先ず取り組んだのは、道灌が造り上げた江戸城の修復ではなく、街のインフラであった。道三堀と小名木川、それに次ぐ日本橋川の開削、併せて日比谷入江の埋立て、江戸の街は次第に形をなしていった。慶長5年(1600)関ヶ原の戦いに辛くも勝利した家康の江戸は、俄に政治、商業都市にかけあがり、全国諸候やその家来たち、彼らを相手とする商人たち、街のインフラを担う労働者たち、江戸の街は全国からの男たちの「はきだめ」となっていった。  経済世界において、需要と供給のバランスから、自然と数量の少ない(レア)な物に、需給がひっ迫高値となる。例えが悪いが人間社会においても、例外はなかった。レアな立場の女たちが、自然と大事にされ、その立場を長くやっていくと、大事にされる側の女たちのスタンスが自然と尊大になってくる。人間社会においては、選択肢をもっている側に対し、選択される側は歓心を抱かれたくなるようなる。この様な要素が重なり合って「かかぁ天下」の世界が、なりたってきたものと考察される。

 江戸時代、武家においては絶対であったが、商家においても、家を存続させるための後継の存在は、家の存亡に関わる事であり、そこに働く人間たちにとっても大事な事であった。従ってその時代の結婚は、一緒になって一家の主人、主婦となり、死後その家の「御先祖様」として、祀られる事が大事な要件であった。現代でも多く見られるが、成人後も全く結婚しない人間や出戻り組は「厄介者」と称され、そのまま亡くなれば「無縁仏」として扱われる事になった。娘は成長して嫁つぎ、その家の貴重な働き手となり、子供を生み育てる。それ故、嫁盗みが行われ、いい嫁を獲る(盗む)という事は、その家の盛衰に関わっていたといっても過言ではなかった。その頃の初婚年齢、男25~28歳、女18~24歳、現在に比べそんなに早くはない。今でも20前後で子もちカレイは沢山いる。地域的に見ると、東北部の農村地帯が、労働力を期待され概ね早婚で、関西の商業圏では最も晩婚傾向にあり、現代のように出戻り組も多かった。

 大名や旗本の夫人に用いられた名称が「奥様」、元禄2年(1689)刊の「好色床語義」では「おくさまとは、むかしは千石の内そとをいひけれども、今は世の中いたりけるにや、町人なれども自躰有徳なるは、おしなめておくさまといふ」と記している。八丁堀七不思議では「奥様あって殿様なし」八丁堀の与力、同心の妻たちは奥様、その夫は旦那と呼ばれた。この奥様が町方へ入って「奥さん」に転訛、次第に階層に関わらず、「おかみさん」も「おくさま」も「おくさん」になっていき、地域的には、下町は「おかみさん」「かみさん」、山の手は「おくさん」「おくさま」と呼ばれる事が多かった。下町の「おかみさん」は本来、御家人や富裕な町屋の妻たちを指す呼称で、「お上様(おかみさま)」が転訛したもので、次第に中流若しくはそれ以下の商家や職人の妻たちを指す言葉となり、自分の妻へは単に「かみさん」と呼んでいた。将軍正室・御台所や御三家、御三卿正室・御簾中といった貴人はさておき、我ら江戸っ子たち、庶民の妻たちの呼称は 御新造、おかみさん、かかぁ、山の神、下タ歯、化け臍と云った具合にだんだんと揶揄され、物質名で呼ばれていた。

 演歌の世界では、船が男で女は湊、江戸の物流は水運が基本、天下の台所大坂や湊町に大きな冨をもたらし、消費都市江戸に豊富な物資が供給された。妻(かかぁ)たちの役割をした湊は、定期的に立ち寄る(停泊)、家庭内においても居続けない亭主殿(船)を歓待した。水や食料の供給、船体のメンテナンスに天候の塩梅など、また無事航海出来るようにと気を配ってくれた。これを繰り返すうちに、船と湊の立場が逆転、面倒みる側の湊の立場が強くなり、「仕切り」という行動が始まる。しかし、こう云う状況の下でも、優しい妻たちのいる、仲が良い夫婦は沢山いた。また、よく見られるように、亭主も勝手なら、女房もがさつで無作法な夫婦でも、亭主を大事に扱い、結局、妻の意に従ってうまくいっている夫婦も沢山いたし、レアな立場をフルに活用して勝手気儘、自由奔放な妻たちを抱えた夫婦も沢山いた。江戸時代も現代も、いろいろなタイプの夫婦がいた。

 ここで、江戸の頃の「かかぁ天下」の実録を、その頃の現実を紹介した、「世事見聞録」から探ってみると、「夫は未明より草履草鞋にて、棒手振様の稼業に出るに、妻は夫の留守を幸いに、近所合壁の女房同志寄集り、己が夫を不甲斐性ものに申なし、互いに蕩楽なる事を咄し合い(中略)或いは芝居見物、其外遊山、物参り等に同道いたし(以下略)」と、きりがないほど、江戸の妻たちの「かかぁ天下」ぶりを披露している。この傾向、宝暦年間(1751~63)には、既に目立っており、化政期(1804~29)になり、それが際立ってきたといわれる。また、それと併行して江戸の妻たちは、寛政年間(1789~1800)頃から、前にもまして綺麗になってきた。裏店のかかぁまで磨きをする様になり、誰さんの顔は物が映る程だとか形容した。この現象は、ストレスが解消されている証とも云える。こうした江戸の「かかぁ天下」振りは、①男たちの優しさ、寛容性を踏まえ、それを根底として、男の手のひらの上の平和を貪った天下であり、②絶対的数の優位性を、自分たちの売り手市場とする転化に成功、満喫した天下であり、③江戸の男たちのちょいとした、心や言動のスキに入り込み、上手に夫婦のイニシアチーブを握った、結果の天下であった。類は友を呼んだのか、種に交わったから、江戸の妻たちが「かかぁ天下」を握ったのか、その発生源は定かではないが、それぞれが、それぞれの生き方を持ち、それぞれの環境の中で我が身の幸福を確保、繁栄を追求していったのが、強い江戸の妻たちの「かかぁ天下」ぶり、強い生き方であった。



 


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