第2章 江戸を駆け抜けた男たち 1 保科正之と明暦の大火
江戸から現代を斬る 「江戸物語88」<人之巻>
陰暦正月18日は、太陽暦(グレゴリオ暦)の令和5年では、2月8日に相当する。暦の上では寒の入りから小寒、大寒と続き、立春となっても春は名のみの凬の寒さの季節である。江戸期の冬は、隅田川に薄氷がはるほどの小氷河期、江戸っ子たちはこぞってふるえていた。こうした厳冬期に、地球史上でも稀な、世界史上でも類をみない、都市火災では最大規模と云われる「明暦の大火」が、明暦3年(1657)正月18日に発生した。「火事と喧嘩は江戸の華 そのまた華は町火消」と謳われた。江戸時代を通し、大火と呼ばれる火事は97回(東京市稿)約3年毎に1回発生、小火、ボヤ程度なら毎日何処かで発生していた。何しろ木と紙で造った家に米藁の畳を敷き、照明は魚油か蝋燭、炊事は薪か炭。冬は北西の春先は南西の季節風が吹き荒れ、幼稚な消防施設では炎は好きなように燃え広がっていった。
明暦2年の10月頃から、翌3年の1月18日までの80日間、江戸の町には一滴の雨も降らず、町はカラッカラッに乾ききっていた。そこへ未の刻(午後2時頃)本郷丸山本妙寺を火元とされる火事が発生、折からの北西の強風に煽られて、駿河台から鎌倉河岸、鉄砲洲から隅田川を越え、佃島、深川に飛び火、向島の牛嶋辺りで鎮火した。第2の発生は、翌19日の巳の刻(am10時頃)を回った頃、伝通院表門下の新鷹匠町(文京区小石川辺り)から出火、お茶の水の外堀を超えて、江戸城の天守閣に火が付いたのが正午過ぎ、三代家光の寛永五層の天守閣は燃え落ちた。更に大名小路を抜け、日本橋から浜町東の隅田川で鎮火、19日は更に申の刻(pm4時頃)市谷麹町の町屋から出火、虎ノ門から芝の増上寺の半分を焼き、目黒川辺りで翌20日の朝、辰の刻(am8時頃)過ぎに鎮火。以上3回の火事により22里8町四方、江戸の町の約2/3が焼失、当時の江戸の人口が約35万程度とされているうちの、10万7046人が犠牲となった(むさしあぶみ)。この大きな惨事となった原因は、当時、隅田川には防衛上の観点から、千住大橋しか架橋されておらず、市街には大きな橋が掛けられていなかった。府内から着のみ着のままで、大川端まで逃げてきた江戸っ子たちは、こぞってそこで立ちすくした。渡る橋がない。逃げ惑う内に或いは後ろから来た者に押され、冷たい川に落ちていった。加えて鎮火したその日から、江戸は猛烈な寒波におそわれた。寒さと飢えで、凍死、餓死者が焼死者以上に出たとされる。江戸史上でも最悪の火事となった「明暦の大火」は、伝通院辺りから出火した2回目の火事で、江戸城天守閣二層目の鎧戸がつむじ風で開き、そこから火の粉が吹きこみ炎上、これをきっかけに本丸二の丸も炎上した。幸い西の丸殿舎は、途中で風向きが変わったため罹災を免れた。昭和20年3月10日の東京下町大空襲で、深川から隅田川を超え燃え広がってきた焼夷弾の炎が、昼過ぎから風向きが変わったため、幸いにも大門通リで延焼を食い止める事ができた。現在も人形町の町では戦前の古い家屋を見ることが出来る。この下町大空襲で犠牲者10万余人、大正12年9月1日の「関東大震災」でも10万余人の犠牲者が出た。
さて、話を江戸に戻そう。老中たちは本丸に火が入ったとき、4代家綱を安全確保のため徳川家菩提寺である上野寛永寺に遷座しようとした。その際、家綱輔弼役であった保科正之は「幸い西の丸は焼け残っている、そこへお移り頂こう」とした。将軍が軽々しく御座所を移すということは、王者の面目に関わる事でもあり、民衆の不安を煽る結果になることを恐れたのである。また一方、正之は焼け出された江戸市民に対し、府内6ヶ所に7日間、粥の炊き出しを続け、飢えと寒さからその生命を守った。これに投入された米7千俵は浅草蔵前の米倉から、江戸市民が運び出した焼け残りの米であった。更に「すべて官費をいうのは、かような時に下々に与え、士民を安堵させるためにある。千両箱をむざむざ積んで置くだけでは、貯えがないのも同然だ」として、屋敷を失った旗本たちに作事料を与え、町方へは救助金として16万両を与えた。先の「東日本大震災」においては、政府と東京電力は発生から約2ヶ月を経てようやく見舞金を支給し始めている。また幕府は、犠牲者たちが安らかに眠れるように、本所牛島、万人塚に集められた遺体9653柱を合葬、霊を慰めている。のちの回向院である。(明暦の大火は「江戸物語88」<天之巻>第5章 火事と喧嘩は江戸の華を参照)
幕府の震災後の緊急課題は、消費する米の確保であった。米の絶対量の不足が米価を押し上げ、家計を圧迫することは明白である。現代においては輸入に頼るとかの方法もあるが、正之は江戸に参府している大名とその家来たちに帰国を促した。江戸の人口の半分を占める武士階級の米の消費を減らすことによって、米価の安定を図った。需要と供給のバランスをとったのである。現在の極端な円安からくる、4%を超える物価上昇も、市民の消費生活のムダを省くことで、ある程度抑えられると考えるが、これは勿論、原材料や消費物価の精査、物流の合理化、便乗による不当な利益、談合によるカルテルなどの問題がクリアにした上での話である。また、米価上昇を抑えたのは商人の力もあった。現代と違って幕府の対応の早さにより、義援金が支給されたことを知った諸国の米問屋たちは、江戸へ一斉に米を搬送、これにより米価は反落、安定した。庶民は極端な飢えに陥ることなく、この危機を乗り越えることができた。
未曾有の被害をもたらしたのは何故か?幕府中枢の者たちは考えた。先ず、江戸には明確な地図がなかったため、逃げ惑う市民たちは方向感覚が掴めず、猛火に包まれ犠牲になっていった。これを踏まえて江戸総図を作成した。次いで、人口増加に伴う江戸の密集化に目を向け、御三家の屋敷や周辺の寺院を中心部から移転させ、城の周辺に空地を造ったり火除け地や広小路を新設、延焼を防ぐと共に交通量も確保、火災から強い町作りを目指した。「ロンドン大火」は1666年に発生した。英国は町の不燃化を進めた結果、ドイツのロケット弾から町を守り古い街並みを残しているが、「明暦の大火」の1657年以降、江戸の不燃化は進まず、昭和20年、B29の空襲で東京の下町は焦土と化した。明暦大火後の一大プロジェクトは、万治2年(1650)仮橋、寛文元年(1661)に本橋となる「両国橋」の創架である。この橋、当初名は「大橋」。しかし、次第に「武蔵と下総の国を結びつけているから両国橋でねえの」と口喧しい江戸っ子たちの意見に押され、幕府も両国橋と改名した。後年、下総国は江戸に編入されているため、正確には両国橋ではなく「一国橋」となる。因みにやや下流に架けられている橋は、いまだに新しい大橋「新大橋」と呼ばれている。
橋が架けられていなかったこと、町の構造が不備だったこと、救助体制及びメンテナンスが不十分であったことなどから、この惨事は焼死者のみならず、多数の圧死、飢えによる死亡、寒さによる凍死者まで出した事を、正之はじめ幕閣たちは反省した。これからの江戸の時代は「武」の力ではない「民」の力があってこそ、江戸の町は繁栄し民が豊かになると考えた。天守閣の再建を断念したことと併行して、これまでの施政方針を大きく転換、「武断政治」から「文治政治」へと、大きく舵を切り替えたのである。この平和主義的政治により、元禄、文化文政の江戸庶民文化は大きく華開き、江戸人、江戸庶民、江戸っ子たちは、「徳川の平和」のもと、その生きざまを謳歌していったのである。
「江戸純情派 チーム江戸」しのつか でした。
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