2 江戸にきた外国人 按針と大航海時代①

 この物語は、もうひとつの家康のピンチ、考えようによっては、福の神の到来である。最近 ホームドア設置され、乗降が安全になった都営浅草線人形町駅から、品川方面への電車に乗ると、数本に1本位は西馬込行ではなく、京浜急行直通運転の三崎行がくる。この赤い車体に白いラインの電車は、湾岸沿いに三浦半島・三崎口を目指す。金沢八景を過ぎた辺りが、按針塚駅、逸見駅である。逸見とは、「辺(へん)み(海、みず)」を表わす名称で、つまりこの辺りは海岸地帯である。ここに今回の主人公「三浦按針=ウイリアム・アダムス」の塚がある。安針塚は、両駅からそれぞれ歩いて約25分、相模湾を見下ろす見晴らしのいい丘の上にある。春は桜の名所である。塔は2基あって、凝灰岩で造られた右側の塔は、按針本人の供養塔、左側の安山岩で造られた塔は、日本人妻の供養塔である。按針の希望によって建てられたと云う。按針は2020年に没後400年を迎えた。イギリス在住時代の33年、大航海時代の2年、日本にきてからの20年、55年間の生涯を終え、長崎平戸の伝・按針墓地で眠っている。日本でお馴染みの外国人の中でも、ザビエルの在日期間が2年余、シーボルトが最初の来日時からが6年余在日と比べると、按針の20年余は圧倒的に長い。

 ウイリアム・アダムスは、イングランド南部ケント州ジリンガムに、1564年に生まれた。父が死んだ後、船大工に弟子入りしたが、アダムス本人は船大工より、航海士になりたかった。修行が終わると、妻の要望に反して航海士となり、航海を続ける毎日が続いた。また、ドレイク船長と共に、スペインの無敵艦隊を破った経験もある。当時の航海は、北極の航路を通ってインド洋に出た。つまり、ノールウエィの北から北氷洋を経由して、ロシアの北を廻る航路であった。スペイン政府が自国の港を使用する事を禁じていたからである。大航海時代、カトリック教徒であるスペイン人やポルトガル人は「南蛮人」と呼ばれた。一方、プロテスタント教徒のイギリス人、オランダ人は「紅毛人」と呼ばれ、宗教改革の余波で、全欧的に宗教戦争で対立していた。カトリック側は、イギリス、オランダを「世界を荒らしまわる海賊」とみなし、また、プロテスタント側は、宣教師たちを「海外侵略を図るスペイン王の手先」とみなして敵対していた。

 オランダの東インド会社は、東インドで買い付けた絹織物や香料を、インド洋から喜望峰を経由して輸入してきたが、それが使えなくなってきていた。そこで東インド会社は、「リーフデ号 300㌧」など、5隻の艦隊を編成、1598年6月、ロッテルダムを出航、イングランドからアフリカ西海岸へ向かい、11月南大西洋からマゼラン海峡を廻る航路を計画した。しかし、マゼラン海峡では厳しい冬が待っていた。大勢の水夫が飢えと壊血病で死んでいった。こうして、マゼラン海峡を出航出来たのは、翌年の9月、次なる苦難は熱帯性悪天候が待っていた。相互の連絡が取れなくなり、5隻の内の1隻「ヘローフ号」は、完全に航路を外れ、1600年7月にオランダに戻った時は、109名の乗組員のうち、生き残ったのは約1/3の36名であった。「トラウ号」も単独で太平洋を進み、東インドに上陸したが、そこで先住していたポルトガル人に捕えられ、処刑されてしまった。アダムスの乗ったリーフデ号は、当初の計画に従い、単独で航海を続け、チリ海岸のサンタ・マリア島に上陸したが、充分な水や食料を得る事は出来ず出航した。再度、島に戻っ時、僚船「ホーペ号(旗艦)」に再会、2隻は1599年12月、大平洋横断の長い航路についた。今度は出来る限り2隻は、互いの視界にはいるようにして航行を続けたが、翌年2月、激しい暴風雨に遭遇、ホーペ号は永遠に姿を消してしまった。こうしてリーフデ号は、また単独航海となった。彼らが目指す「黄金の国ジバング」は、何処か大陸の北端にあると信じられていたが、日本は彼らが頼りにしていた地図の上とは、全く異なる海域に位置していた。

 ついにリーフデ号の乗員たちは、慶長5年(1600)3月、日本では「関ヶ原の戦い」が起こる半年前に、豊後の国(大分県)国東半島臼杵湾に漂着、乗っていたリーフデ号は大破した。座礁地点は臼杵湾佐志生黒島、この地に1966年、臼杵史談会の記念碑が建てられた。「ウイリアム・アダムスは、1598年東洋遠征隊の旗艦ホープ号の航海長として乗り組み、マゼラン海峡を経て2年に渡る苦難の航海の末、漂着、時の臼杵城主大田重正の保護を受け、ついに家康と引見、家康の外交顧問となり、重用された(抜粋)」とある。リーフデ号が日本に漂着した時、110名の乗組員のうち、生き残った者はわずか24名であった。サンタ・マリア島を出発してから臼杵湾に漂着するまでの4ヶ月の間、新しい飲料水と食料が得られなかったためである。更に、それに起因する疫病発生の為、生き残った者24名の中から更に、多くの人々が臼杵で亡くなっていった。慶長5年、アダムスが豊後国に漂着したその年の日本は、秀吉が慶長3年に63歳で死亡、家康が次期政権を狙って画策していた時期である。家康は若い秀頼を如何に排除することができるか、その最良の策は何かと模索していた。家康は自分の死後、若い秀頼が最強の支配者として地位を築き、わが息子秀忠を権力から引きずり落とすのではないかという危惧を常に抱いていた。それ故に、家康は自分が生きている間に、秀頼を抹殺する事が、我が子たちの永遠の繁栄の道だと確信していた。この時期に全くの偶然ではあったが、ウイリアム・アダムスたちが日本漂着した。正しく云えば、アダムスが乗ってきた、リーフデ号が積んできた武器や弾薬が、家康の天下取りに大きなプレゼントとなったのである。 (つづく)



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