2 江戸にきた外国人 ②按針と家康

 慶長5年(1600)3月、リーフデ号の漂着を知った家康は、ウイリアム・アダムスたちに、すぐに大坂へ来るように命じた。船長のヤフブは余りにも衰弱が激しく、動ける状態ではなかったので、代わりに水先案内人のアダムスを召喚した。イギリス人であったが、ポルトガル語も多少話せたので、ある意味では正解であった。また、三成らとの戦いに備えていた家康は、リーフデ号の積荷、主に武器、弾薬を没収、大坂城へ搬送するように命じた。それらは、火縄銃500、大砲の弾500、火縄矢350、二連弾(ふたつの弾が1本の鎖に繋がり、船の装備などを破壊する)が300、火薬などであった。これらの武器、弾薬は、後に上杉討伐や「関ヶ原の戦い」で使用され、乗組員たちは砲手として参加した。関ヶ原の戦いの流れを変えた、小早川秀秋の陣営に打ち込まれた脅しの鉄砲も、これらのひとつであった可能性もある。

 アダムスはオランダ人(ヤン・ヨースデンともいわれる)と2人で、堺まで船で連れていかれた。途中堺まで、多少ポルトガル語が話せる水夫たちから、ヨーロッパの事、宗教の事、日本までの航海の事などを聞かれた。5月12日になって、大坂城西の丸で家康と対面した。家康は、どこの国から来たのか、遠い日本に来た動機などを聞いてきた。アダムスは、我国が長い間東インドへの道を探して来た事、貿易の機会を得るために、全ての王や君主たちとの友好を望んでいる事などを告げた。我が国は外国が持っていない、種々の産物を持っており、また、我が国が持っていない産物を、購入する用意がある事なども伝えた。イギリスは戦争をしているのかと聞かれたので、スペイン、ポルトガルとは戦争しているが、他の全ての国とは平和であると答えた。また、何を信仰しているのか、どの海を渡ってきたのかとも聞かれた。南アメリカの南端、マゼラン海峡を越えてきたと、世界地図を見せながら説明すると、俄かに信じられないような顔をした。この日は真夜中まであれこれと話しが続き、途切れる事がなかった。

 リーフデ号は臼杵から大坂、そして江戸へ運ばれていったが、嵐の為、三浦半島浦賀に係留され、ここで解体された。浦賀には幕府船団の基地があり、ここで指揮をとっていたのは、海軍奉行であった向井将監忠勝という男であった。後に彼は按針の親しい友人となる。こうして、アダムスは日本に留まらざるを得なくなった。彼は家康の通訳であり、相談役になっていた。アダムスがイギリスで船大工の経験があると聞いた家康は、ヨーロッパ式の船を建造するように依頼した。船は進水するための適切な河口をもち、木材を採取する天城山が近かった相州伊東で建造された。二隻の船は、日本における最初の洋式船であり、スペイン大使が帰国する際にも貸し出された。こうして、アダムスと家康の関係は、益々親密になっていった。数学や航海用具の使い方、地図の読み方などを家康に教えた。通事(通訳)の役目もこなした。家康はアダムスの真面目さ、物怖じしない態度に次第にひかれ、また彼の必要性を感じ、横須賀近くの逸見村に250石を与え、「サムライ」の称号を与えた。ここでアダムスは「三浦按針」となった。青い目のサムライの誕生である。三浦は相州三浦郡から、按針とは航海に使う羅針盤を指し「三浦の舵手」を意味した。刀を差し、日本の衣装を着て歩いた按針は、しっかり造船業に励み、次第に日本の生活に打ち解けていった。

 友人となった向井将監は、アダムスが江戸滞在中に生活する住居を探してくれた。按針が購入した屋敷は、本小田原町に接する日本橋魚河岸の一角であり、その土地は按針町(室町1丁目)と呼ばれ、屋敷は大正12年の関東大震災までそこに建っていた。現在、そこに史蹟が建てられている。「三浦按針は、英国ケント州に生まれ、慶長5年に渡来、家康に迎えられ、造船、砲術などに業績をあげ、家康、秀忠の外交、特に通商の顧問となり、日英貿易に貢献した」とある。按針の日本人妻は、大伝馬町の馬込勘解由の娘だとされているが、別説もある。出戻りだとされる娘・お雪は洗礼名をマリアとして、息子ジョセフ、娘スザンナをもうけ、相州三浦郡横須賀逸見村で、一家仲良く暮らした。天和2年(1616)家康が75歳で死ぬと、2代秀忠は天和4年、長崎・平戸両港をイギリス通商港とし、キリスト教の伝道を禁止、キリシタンを処刑した。家康という理解者を失った按針は、天和6年(1620)4月24日、異国の地、長崎平戸で寂しく没した。

 JR東京駅東側は八重洲口と呼ばれる。この八重洲の語源は、ウイリアム・アダムスとリーフデ号に乗ってきた東インド会社艦隊の航海長、砲術家のヤン・ヨースデンが拝領した、現在の丸の内3丁目、帝劇付近が「ヤヨス河岸」と呼ばれた事による。慶長19年(1614)、大坂冬の陣において天守閣に砲撃、弾は淀君の居室近くに命中、侍女ひとりが死亡、それを見た淀君は即和平に応じた。この演出効果をもたらしたのが、ヨースデンであるとするならば、家康の死ぬまでの大きな懸念材料、①豊臣家の滅亡、➁キリスト教の禁止令の片方を払拭する事に大きく貢献したことになる。冬の陣の後、大坂城堀割は埋め立てられ、裸の城となった。翌、元和元年5月「大坂夏の陣」大坂城陥落、豊臣家は滅亡した。慶長17年(1612)元和7年(1621)将軍の許可証であると朱印状をもってシャム(タイ)や、コーチシナ(ベトナム)カンボジア、トンキンなどに行き、海外貿易の振興に活躍したヨースデンは、元和8年バタビア(インドネシア)からの帰途に、遭難し死亡した。

 海外交易に積極的であった家康の死後、秀忠、家光へと世代交代、江戸幕府は海外諸国に対し、閉鎖的体制へと方向転換を図っていく。寛永10年(1633)家光は、奉書船以外の海外渡航及び渡航者の帰国を禁じ、同12年、日本船の海外渡航を全面禁止する「鎖国令」を発布。江戸幕府は、長崎出島を窓口としたオランダ、対馬宗氏を通しての朝鮮、薩摩島津氏を介した琉球、蝦夷アイヌ民族のみの交易を認めた。以後260余年、海外や異文化の交流は途絶え、大航海時代、按針やヨースデンがもたらした、グローバルな政治観、考え方は育っていかず、我が国は列強諸国から大きく遅れを取っていったのである。                    

                   「チーム江戸」しのつか でした。



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