3 忠臣蔵の世界・元禄男の純情
<①堀部弥兵衛・安兵衛父子> 慶長5年(1600)「関ヶ原の戦い」に臨む為、のちに二代将軍となる秀忠は、3万8千の徳川本隊を率いて、中山道を西に向かって急いでいた。従う武将は榊原康政、本多正信などであったが、信州上田城で真田昌幸、幸村父子の率いる僅か約2千5百の軍勢に翻弄され1週間も足止めを喰い、戦いに大幅に遅参、合戦には間に合わなかった。戦いは小早川秀秋の裏切りなどにより辛くも勝利、家康はこの勝利に貢献した、秀吉恩顧の大名たちに、勝利による没収高662万石余を充て大幅に加増、転封せざるを得なかった。この事が徳川政権確立後の、譜代外様に関わらず徳川一門、将軍の身内までも取り潰すという、厳しい諸大名などの御家取り潰し、改易に繋がなっていく。
慶長10年(1605)日本全国総石高約2217万石に対し、天領(直轄地)は230~240万石、約10~11%であったものが、元禄10年(1697)になると、利根川東遷による領地の増大なども加え約400万石、金子に換算して70万両、15.5%に増大した。それでも幕府財政は歴代将軍や大奥などの浪費により圧迫が続き、改鋳(金の品位を下げる=悪鋳)により、その体制を保っていたが、民衆は強烈なインフレに常に悩まされ続けていた。以降、幕末期の天保13年(1843)頃までは、総石高約3056万石に対し、天領420万石、約13.7%で推移、維新を迎えている。因みに同時代の禁裏仙洞御料(天皇、上皇、女院御料地)は約4万石で約0.1%余、万石以上の大名領分は約2250万石で、約73.6%を占めていた。
慶長3年(1598)秀吉が死ぬと、三成が家康の討伐を企て始め、翌4年、秀頼が大坂城に移ると、家康は残る自分の人生を思い、如何に豊臣の勢力をそぐかを真剣に考えた。自分の余生との戦いである。このまま浅井長政の血を引く、あの秀頼を成長させては、豊臣恩顧の西国大名たちが結集し、我が息子秀忠の器量では、徳川政権の維持は到底無理であろう。ここは先ず、大坂方を当面仕切っている三成に仕掛け、三成を嫌っている清正や正則たちの勢力を上手く利用し一合戦を引き起こし、一気に徳川勢力の拡大し安定を計るべきだ。それには先ず三成を挑発すれば、細かい経理タイプのきゃつは必ず乗ってくる。そこで家康は、会津に引っ込んだまま大坂城に出て来ない、上杉景勝に狙いを定め大軍を率いて北上、景勝にちょっかいをかけた。下野国小山まで進んだ時点で会議を開いた。世に云う「小山会議」である。裏工作が功を奏し、正則の第一声により、徳川連合軍の結束が固まった。この折、家康と正則の間に密約が交わされたと考えられる。
元和5年(1619)①広島城を無断で改修した、②政治的手腕が無く、本人におごりが見られる ③正則に陰謀の企てがある、などの理由をつけた幕府は、福島正則を改易した。中国地方の要である広島城には、紀伊和歌山城主の浅野長晟を配置し42万6500石を与えた。これは浅野家と家康娘振姫との婚姻関係が重視された。空いた紀伊和歌山には、家康10男頼宣を配した。御三家の始まりである。この物語の主人公播州浅野家には、正保2年(1645)正保赤穂事件により、広島宗家から分家した浅野長直(長矩祖父)が、5万3千石で常陸国笠間藩から入部、入浜式の塩田開発を奨励し塩を赤穂の特産とした。(つづく)
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