元禄男の純情 ②高田馬場の決闘
「男心に男が惚れてぇ」の演歌の世界が、江戸元禄の時代にもあった。高田馬場で、叔父甥の間柄で見事7対3の無勢を撥ね退けて、仇打ちの助っ人の役割を見事に果たし、一躍江戸のヒーローになった中山安兵衛に、播州浅野家江戸留守居役堀部弥兵衛はぞっこん惚れた。安部衛の心意気に惚れたのである。武術の技もさることながら、親でもない兄弟でもない、単なる意気投合(本人たちはいたって真面目であるが)して、端から見れば義理の叔父、甥の間で、死を覚悟してそこまで付き合うのか? 江戸も元禄になって、人間と人間のつながりが薄れ銭と銭との繋がり、その場限りの体裁だけで後は他人様となる、この薄ぺらいせちがらい時代において「安部衛殿、そこまでそこもとは尽くすのか」弥兵衛は安兵衛のそこに惚れたのである。こうなればどうしても自分の身内としたい。自分の娘・きちの婿殿にして毎日、24時間生活を共にしたい。一緒に酒を酌み交わして、残る人生の歓びを共有したい。弥兵衛の切なる願い、老いの一徹は日毎に強くなっていった。
こうした弥兵衛からの書状を目にした内蔵助は、最初のうちは「何を馬鹿な事を」と考えていたが、何度も同じ内容の書状が届くにつれ、江戸留守居役であり世情にもたけた弥兵衛の異常さに、内蔵助は狂っていると思い始め江戸に返事を送った。「弥兵衛殿、それは無理というものではありませぬか」と、しかし弥兵衛からの返事は「否、no」かえって闘志を露わにし、自分だけではなく自分の意見に同調する仲間が加わり、安兵衛を口説く事になったと知らせてきた。弥兵衛からのこの申し出に、安兵衛の答えは勿論「否」、現在勤めている道場の代稽古で充分飯は喰っていける。何を今更宮仕えをして、堅苦しい生活をしなければならないのか。フリーターの生活で勝手気儘なシングルの生活を満喫している、現代の若者と同じ考え方である。弥兵衛とそのサポータたちが入れ替わり立ち替わり、道場や居宅に現れ安兵衛を口説いた。浅野の殿様も他藩の大名たちと同様に、高田馬場で名を上げた安部衛が我藩の一員となるならこれほど名誉な事はないと、フォローの姿勢を示した。
安部衛苦し紛れに「中山姓のままでよろしければ」と答えた。中山姓のままでは堀部の家は継げない、それならば弥兵衛殿も諦めるであろうと推察した。処が弥兵衛からは思わぬ答えが返ってきた。「それで宜しい」。娘一人いる堀部の家は、弥兵衛が死ねば家は絶える。それを覚悟で云っているのである。これには安兵衛返す言葉もなかった。それほどまでにこの拙者を買ってくれるのか、必要としてくれるのか。ここで安部衛今迄の思考が、プツンと音をたてて切れた。御先祖様からの新発田藩中山姓を捨て、この御方の為に励もう、馬場でしごきを投げてくれた、きち殿も拙者の望む処、中山安兵衛が正式に堀部家に入ったのは、元禄10年(1697)の秋であった。幸せな堀部家の生活は短かかった。安兵衛の名を更にあげたあの事件はもう4年後に迫っていた。
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