元禄男の純情 ③銘々伝

 「堀部弥兵衛金丸」寛永4年(1627)常陸国笠間で誕生、堀部家は祖父以来、浅野家に仕える譜代の臣下で、幼いころ父が死去したため、長直、長友、長矩の三代に仕え、祐筆を経て江戸留守居役となり、300石の知行を得る。先妻の間に一男一女(娘きち)をもうけるが、長男は事故死、後妻の縁続きである男子を、長矩に申請するが却下され、家を継ぐべき男子がいなかった。そうした状況の下で知りあったのが安兵衛である。弥兵衛は討ち入り時77歳、赤穂浪士最高年齢者、討ち入りに際して「浅野内匠家来口上書」の草案を作成、討ち入りの時間についても「寅の一天(AM4:00)」が最良と進言している。因みに「江戸留守居役」とは、大名の江戸屋敷に常駐、幕府や他藩との連絡、折衝を始め、各種情報の収集にあたる外交官である。彼らは組合を結成、公式のやりとり以前の根回しを担当する。例えば老中が留守居役に対し、公式に命じにくい事を提示、各藩が自主的に進める事を期待したり、また逆に老中が留守居役から藩の要望を受け、それに対し助言するなど、藩と幕府の関係を円滑にする役割を担った。

「堀部安兵衛武庸」安部衛の父弥次右衛門は、越後新発田藩溝口家の200石の藩士であったが、長男安兵衛14歳の時、失火事件に絡み蟄居し死去、母方の親類に引き取られたりしたがその後各地を転々とする。19歳になって江戸へ出て、牛込元天竜寺跡竹町(新宿区納戸町)に住み、元禄3年頃(1690)から堀内源左衛門道場に入門、しばらくして免許皆伝を受け師範代となる。この頃、西条藩士管野六郎左衛門と知り合い、意気投合叔父甥の間柄となる。血縁ではないから義理(in Low)の間柄である。元禄7年(1697)西条藩内で菅野に絡む争いが発生、牛込から馬場(西早稲田3丁目)まで歩いて30分弱を、おっとり刀で駆けつけ見事叔父の助太刀に成功、男の約束を果たした。安兵衛にとってこの決闘の経験が討ち入りの際に大いに役立ち、大石主税が受け持った裏門から突撃隊として大太刀を使って活躍、討ち入りを成功に収めた。また、この馬場に居合せていた堀部きちが、たすきを探していた安兵衛に自分のしごき(帯紐)を投げ、これが縁で弥兵衛との繋がりが始りきちと結婚、播州赤穂浅野家馬廻り役となり300石を拝領、きちと短い新婚生活を送った。安兵衛にとって一番ほんのりとした家庭的な日々であった。

「堀部きち」ほり、順、幸(こう)とも記される。結婚4年目にあの事件が発生した。夫、安兵衛は江戸急進派として、しばしば内蔵助とぶつかっていた。殿刃傷後は夫とともに両国橋傍米澤町の借屋で生活していたが、「丸山会議」後は、安兵衛は林町5丁目の借屋へ一人移転、きちはそのまま米澤町に留めおかれた。元禄15年(1707)討ち入り時はきち33歳、父金丸の後妻わかと共に、わかの実家の二本松藩丹羽氏の家臣忠見家に身を寄せた。その後藩主正室冷台院に仕えていたが、金丸の甥、言真が熊本藩細川家に召し抱えらたのをきっかけに熊本へ同道、この堀部家は明治まで続く事になるが、きちは享保5年(1720)同地で死去、46歳の波乱の人生であった。きちの人生は米澤町での4年間の安兵衛との結婚生活が、一番幸せであった。また、一説によると叔父である僧に入門、戒律を授け「妙海」と名乗り、泉岳寺の近くに庵を結び、父弥兵衛金丸、夫安兵衛武庸はじめ赤穂義士の冥福を祈って一生を終えたと云う「さちといえど 身にはさちなき人の名の ちとせの後も 朽うせぬぞさち」  



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