4俳句忠臣蔵 ①刃傷松の廊下の謎
第1のステージは、江戸城松の廊下である。元禄14年(1701)3月14日 その事件は起きた。知らせは早駕籠で播州赤穂へ知らされた。江戸から赤穂まで172里、江戸時代では155里とされている。通常、大名行列の行程では17日、飛脚便では8日かかる。事件を知らせる第1便は、14日申の下刻(pm5時頃)江戸を立ち、19日の卯の刻(am6時頃)播州赤穂城に到達、所要日数4日半。第2便も同様、くたくたになりながら、心配している赤穂の藩士たちに、殿の即日切腹という悲報を告げた。この急報を可能にしたのは、塩の生産から全国への流通で培ったノウハウと、日頃からの問屋場への付き合い方が事を奏した。浅野長矩は「この間の遺恨覚えたるか」と叫びながら、吉良に切りつけたという。現場は江戸城松の廊下、大広間と白書院を結ぶのが松の廊下、大広間を出て西へ10,5間、そこから北へ直角に曲がり17,5間、全長28間、幅2,5間の畳敷きの廊下で、襖の絵柄が、千鳥と松を配している為、この名がある。この突然の刃傷事件には様々な憶測を呼び、その原因は定かではない。歴史学者は、当事者の日記や手紙、文書などを1次史料といい、それ以外の後世に書かれたものを2次史料といい、信憑性に欠けるものが多い。彼らは1次史料をできるだけ多く集め、それらを吟味して事実を確定していく。この点については、刃傷の原因、理由(わけ)についての1次史料はないので本当の理由は不明であり、あくまでも状況証拠からの推察となる。
<賄賂説>5代綱吉はその人間の性格上、幕府、己自身の格式を上げるため、朝廷などとの儀礼、交流を重視、その礼儀作法にうるさかった。ここに必要(悪)として用いられてきたのが幕府高家筆頭吉良家である。元禄時代になると世の中は拝金主義に傾き、何かにつけて金の力がものを言う風潮になっていった。また、吉良家は4200石の飛び地、その役目柄と吉良の性格上、いくらでも金子を必要とした。為に正室富子の実家、上杉家から毎年6千石の援助をうけていた。それでもなお色々と欲しい物があったとみえ、訪問先の大名屋敷でやたらと、掛け軸や置き物を所望したという。一方、長矩も17歳の時、勅使饗応役を経験しておきながら、35歳で何故という事になるが、元禄時代の饗応費は、約1200両必要としたといわれる。長矩は独自の計算でそれを700両にまで削減、この結果一連の接待に不備が生じ、吉良をいらだたせたという。双方の意思疎通を欠いた一方的な経費削減がもたらした、人間関係の破綻であった。
<長矩持病説>赤穂5万3千石の藩主長矩は、幼くして父長友を亡くし、9歳で藩主の座に着いた。為にかどうか短気で我儘な性格であったという。また、長矩には持病があり、疲労やストレスがたまると胸が圧迫される「痞(つかえ)」があった。この病は雨など気圧配置が低くなると症状が悪化した。生憎と3月12日は雨、13日曇と天候不順が続いた。また、長矩の個人的評価は、元禄3年(1690)時点における、諸藩の石高、財政状況、大名の評判を記録した「土芥寇讐記(どかいこうしゅうき)によれば、「内匠頭は知恵があって利発であるが女食を好む。故に主君にへつらう家臣は、美女を探し求め勧め立身出世する。政治は幼少の頃から家老に任せている」と余り芳しくない。
<吉良不覚説>吉良の正室は上杉家の娘富子、二人の間の息子は上杉家に婿入り、綱憲を名乗り藩主となる。その妻は紀州徳川家の娘で、上杉家の子(吉良の孫)は、吉良家に入って家を継ぐ。こうした状況で吉良家と上杉家は同族関係にあった。更に、上杉家に嫁いだ紀州徳川家の娘の弟綱教は、綱吉の娘鶴姫と結婚していた。こうした華麗なる一族と、姻戚関係にあった吉良は「不覚」に陥った。不覚とは国語辞典では、心や意識がしっかりしていない人や事を意味する。また、古語辞典では悟っていない、思慮分別がない事や人を意味する。吉良本人の奢る性格とその環境によりそれが倍増、更に嵩にきてより傲慢な、不遜な対応となっていった。「近世日本国民史」を編纂した徳富蘇峰によれば、その元禄時代編において「吉良は、上にへつらい下におごり仲間をしのぎ 世の中を我が物顔に振る舞う 海千山千の煮ても焼いても食えぬ代物」と酷評した。また、江戸留守居役堀部弥兵衛金丸私記によれば「殿中において諸人の前で、武士道がたたないようなひどい悪口をいった。悪口は相手を殺害するのも同然の御禁制と承っておる」と記している。権力に媚びる人間は、その媚びた分、立場の弱い人間に向かう。上野介が衆人の中で浴びせた悪口雑言が、長矩の行動を起爆させたのである。
<製塩対立説>徳川政権が安定してくると、江戸に入ってくる物資も豊富になってきた。生命に欠かせない塩もそのひとつであった。江戸初期、家康が勧めた「揚げ浜式塩田」の行徳などの塩に対し、「入浜式塩田」を展開した赤穂、竹原を中心とした瀬戸内海沿岸の製塩業は、その気候風土に恵まれて、安価で良質な塩を生産した。元禄期約1650町歩であった塩田は、幕末期には約4000町歩にまで拡大した。常陸国笠間藩から祖父長直の代になって、赤穂に転封となった浅野家は、長直が製塩を藩の貴重な産業として位置づけ、重要な財源として育てていった。赤穂の塩田面積は124町歩、5斗入り俵で67万8千俵、大坂40%、江戸30%、東北、北陸地方へ30%と「下り塩」と呼ばれ運ばれていった。因みに江戸では日本橋川から入った伊勢町堀(西堀留川)の米河岸の角に、塩河岸があり活況を呈していた。その結果、赤穂藩は名目5万3千石の石高でありながら、新田の開発や塩の運上金(税金)によって、その5倍から6倍近い、2万8千石の収入があったとされる。藩札が大坂の塩問屋でそのまま通用した。税金は四公六民、領民は裕福な生活に恵まれた。一方で漬け物用として使用された三州吉良の塩は「饗庭(あえば)塩」と呼ばれ、塩田面積20町歩と小規模で赤穂の約1/6であった。入浜式塩田は安価で良質な塩の生産を可能にしたため、全国的に広まっていった。吉良がそれ以上のノウハウを望んだため、製法をめぐる争いに進んだものと思われるが、農作物、海産物、工業用品に至るまで、コンピューター制御のない時代、現場の人間の技、勘、努力がいかほど優れ発達しようとも、土壌、気象条件など基礎的環境が全く同一でない限り、同じ製品は作り出せない。いかに吉良がそれを望んでもそれは無理というものであった。長矩もその辺を考慮にいれ、そこそこで妥協しておけば、この争いは避けられ優秀な家臣も死なずに済んだ。
<家康密書説、綱吉陰謀説>慶長5年(1600)関ヶ原の戦いにおいて、家康は東軍の勝利を確実にするため、小山会議の前後に豊臣恩顧の大名の一人福島正則に、密書を送ったとされる。石高の大幅な増加と、豊臣政権の安泰を柱にしたものであったと推察される。数10年後その密書は反故にされた。慶長19年から元和元年(1614~15)にかけての、大坂冬の陣、夏の陣で豊臣家は滅亡、正則は入封した広島城を、勝手に修復したと咎められ改易となった。同様、加藤清正も毒殺されたと噂が飛んだ。その後、紀伊和歌山から転封してきたのが浅野長晟である。その密書を見つけた長晟は、分家した赤穂の長直に手渡し、長友、長矩に伝えられた。それをかぎつけたのが、綱吉側近中の側近柳沢吉保である。吉保は吉良に取り戻しを命令、吉良は上司の為、躍起になって長矩に迫った。「出せ」「そのようなものはござらぬ」執拗な応酬が繰り返された。これに業を煮やしたのが綱吉である。梶川と吉良を使って茶番劇を作り上げた。梶川に長矩を羽交い絞めさせ、吉良がそのすきに長矩の小刀を奪い、自ら額に傷つけ逃げた。この話は最もマユつば臭いが綱吉には前科があった。自分を将軍に押し上げてくれた、大老堀田正俊を疎んじるようになり、その結果、江戸城内で若年寄稲葉を使って殺させ、その稲葉も駆け付けた人間たちによりが殺されてしまう。死人に口なしである。謎は永遠となる。こうした前歴からこの話は出来上がってきたと思われる。
元禄14年(1701)3月浅野内匠頭長矩は、幕府高家吉良義央を殿中にて傷つけ、即日切腹、お家断絶、領地も没収された。この裏には何があったのか?未だにはっきりとした論評は下されていない。ここが「忠臣蔵の世界」の魅力のひとつかもしれない。次回、「ステージ2」は、いよいよ明日討入、江戸の母なる川、隅田川に架かる両国橋での、浪士大高源吾と俳人榎本其角の、二人の出会いである。
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