4俳句忠臣蔵 ②両国橋の出会い
いよいよだ、いよいよだ。いよいよ明日が討入り決行の日だ。毎年師走の13日は、江戸の大奥から市井まで「煤払い」の日である。この1年溜まった煤を払って新年の準備をする日である。「銭金が こうたまればと 煤払い」この1年、銭金は面白いように流れていった。元播州赤穂の藩士大高源吾は、煤払いの竹笹売りに身を隠して、吉良が屋敷に滞在する日を探っていた。吉良が茶会を催し屋敷に滞在する日、その日が討入り決行日である。やっと確信出来る情報を得て、それを城代家老内蔵助に報告した帰りであった。風流心を忘れいなかった源吾は、両国橋の欄干ごしに、雪降りしきる川面を眺めていた。「これで今までの苦労が身を結ぶ、やっと楽になれる。例え吉良の首を取れなくとも、亡き殿の傍へ行ける」源吾の心はその日の天気とは裏腹に、晴れ晴れとしていた。「おや子葉さんじゃないかね」茅場町の宗匠其角は、孫弟子にあたる源吾を見かけ声を掛けてきた。長い浪人生活のため俳句の世界から遠ざかり、詩心も無くしているだろうと、其角は源吾の風体から推察した。いやそうじゃないだろう、まだ心は豊かな筈だと思いなおし、源吾に発句を投げかけてみた。「年の瀬や 水の流れと 人の身は」源吾ニッコリ笑って付け句を返してきた。「明日待たるる その宝船」。其角は「宝船」の意味を勘違いした。やっと長い浪人生活から抜け出し、どこぞの藩に召し抱えられたのだろうと。先ずはめでたい事だと、自分の着ていた拝領の羽織を、源吾の背中に掛けてあげた。其角はその足で俳諧の指導をしていた、本所の旗本土屋主税(歌舞伎の世界では松浦候)の屋敷に向かった。俳句仲間の嵐雪や杉風にその話をすると、「宗匠、勘違いだよ、それは仇討ちの暗示だよ」といわれ、はっと自分の不明に気付く、其角であった。
元禄15年(1702)12月15日は、太陽暦では1703年1月31日にあたる、この日は異常に寒かった。日本のクーデターは雪の降る日が多い。「桜田門外の変」は、万延元年(1860)3月3日。「ニ・二六事件」は、昭和11年(1936)2月26日。元禄15年の討入り時刻は、15日の「寅の一点」午前4時、表組に加わった大高源吾は、本所松坂の吉良邸に隣接する、土屋邸に口上を述べに出向いた。逗留していた其角は、前日の不明を詫びようと源吾を捉まえて「わが雪と 思えば軽し 笠の雪」と投げかけた。子葉(源吾)現場でもニッコリ笑って「日の恩や 忽ち砕く 厚氷」ときた。側にいた春帆(冨森助右衛門)も「飛び込んで 手にもたまらぬ あられかな」と添える。子葉の句碑は、両国橋東詰南側に建っている。
今回の主人公大高源吾忠雄は、播州赤穂藩の近習(藩主の側近く仕える家臣)で、20石5人扶持。若い頃から俳句に秀で、宝井其角の高弟である、談林派の水間沽徳(けんとく)門下の俳人で号は「子葉」、他にも冨森助右衛門「春帆」、神崎与五郎「竹平」、茅野三平「涓泉(けんせん)」らがいた。同じ其角派のの桑岡真佐の門人には、小野寺幸右衛門(源吾の実弟、京都留守居役小野寺十内の養子となる)「漸之(ぜんし)」、岡野金右衛門(源吾の従弟)「放水」が同じ俳句仲間であった。この様に播州赤穂浅野家の藩士たちは、都会的、知性的な俳諧を好む知識人が多かった。何故このような知識人たちが、いわば現代でいえば、計算に合わない行動に出たのか、その理由は各人の考え方の違いはあるにせよ、共通しているのは、お互いに持ち合っている同じ心情であり、知識人であるが故に、討ち入り以外に、行動の選択がなかったのである。孝を捨て義に尽くす事が、自分たちが昇華できる、唯一の道だと考えたのである。源吾が元禄15年9月5日に送った、母へ暇乞いの書状には「母上様 御煩り散じ奉り、お家の御恥辱をすすぎ散じ申したく 一筋にて忠のため命を捨て 先祖の名をあらわし申すにて御座候」この手紙とともに添えられた句が「山を裂く 刀も折れて 松の雪」である。この母への暇乞いの書状と句は、今でも赤穂市正福寺に残されている。また、源吾は世話好きな人間であった。ある時、鉄砲洲上屋敷(現築地聖路加国際病院辺)の長屋に、神崎与五郎など俳号を好む仲間たちを集め句会を開いている。「赤水」の俳号をもつ内匠頭長矩より拝領した羽織を、主人と見立てての句会である。発句「搗いて着る 具足の餅や 武の鑑」赤水。句合わせを重ねるうちに和気あいあいとなり「元禄播赤歌仙」と名付けた歌仙を巻きあげた。この様な繋がりが討ち入りへの結束となっていた。因みに、歌仙とは、長句、短句を交互に詠み三十六句をもって完結する、俳諧連歌の一様式である。
俳聖芭蕉を尊敬していた源吾は、元禄10年(1697)参勤交代で江戸から赤穂に戻る途中、翁が眠る「義仲寺(ぎちゅうじ)」に参拝、句を詠んでいる。この参勤交代時の紀行文は「丁伍紀行」と題して残されている。他にも「俳諧二ッの竹」を記している。義仲寺は近江国大津郊外、琵琶湖南端膳所にある。本尊は聖観音菩薩。別名「巴寺」。義仲の愛妾巴御前が義仲の墓の近くに庵を結び、日々供養した事からこの名がある。芭蕉翁は湖南の景色と人々をこよなく愛し、この寺で度々句会を催した。大坂で亡くなった翁の「骸(なきがら)は木曽塚に送るべし」の遺志により、元禄7年(1694)10月、義仲の墓の隣に葬られた。「木曽殿と 背中合わせの 寒さかな」芭蕉門人島村又玄が、師匠法要のために詠んだ句である。生前「白露を こぼさぬ萩の うねりかな」と詠んだ翁に応えて、子葉「こぼるるを ゆるさせ給え 萩の露」と返した。萩の露は、数年後の我が涙となった。
元禄14年(1701)3月、御役御免となった吉良は8月になって鍜治橋内(現八重洲2丁目)から、本所松坂町(現両国3丁目)に移転を命ぜられた。江戸っ子たちは、幕府からの仇討ち免許証交付だと囁きあった。12月、幕府は吉良上野介の隠居と、養子吉周(よしかね)の家督相続を認めた。源吾は早く討入に踏み切らないと、吉良が米沢城に入ってしまうと危惧,急進派の安兵衛と書状を交わし、連携を模索していった。江戸に下ってからは、脇屋新兵衛と名乗り、本所堅川の南側、三つ目橋を渡った徳右衛門町に住み、隣町に安兵衛の借宅があった。吉良邸とは目と鼻の近くである。源吾は探索のため本所二つ目で庵を結び、千家流を広めていた茶人山田宗徧(そうへん)に入門、茶会を通じて吉良家の茶会の情報を探っていた。同じ弟子に吉良家の家老小林平八郎がいた。吉良屋敷滞在の確信を得た内蔵助以下一統は、元禄15年12月15日寅の一点、吉良邸討入り、凱旋、泉岳寺の亡き殿へ報告。翌16年2月4日、源吾は預けられた松平家で切腹、享年32歳、戒名「刀無一剣信士」。切腹直前に、鼻紙に書きつけたとされる、俳諧の師匠沽徳への辞世の句は「梅で呑む 茶屋もあるべし 死出の山」 子葉 であった。
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