「姫たちの落城」第3章 大坂城物語Ⅲ 天秀尼➁

 天樹院(千姫)と天秀尼(泰姫)は、江戸、鎌倉と別々に生活していながらも、互いに気持ちは一緒であった。寛永11年(1634)、秀頼や豊臣家の人々の27回忌にあわせ、老朽化した東慶寺本堂の跡に天樹院が寄進した仏殿や方丈、書院などが移築、修復された。これらの仏殿などは家光の実弟駿河大納言忠長の北の丸御殿を移築したものである。忠長は母江に溺愛され駿河国55万石を領したが、幕府に反抗的な行動をとり、尚且つ酒による粗暴な行動が重なった為、父秀忠の怒りをかい母江が亡くなったあと自刃させられた。28歳であった。しかし、忠長は聡明な器量であったとされ、天下に二人の将軍はいらないという幕府の判断により、無理矢理でっち上げられた寓話によって、詰め腹を切らされたという説もある。当時の江戸幕府封建制度の脆弱な基盤が、忠長の存在を許さなかったのである。忠長は幕府体制に潰された犠牲者の一人となった。

 天秀尼の武士にも勝る豪胆な気性を表す事件として「会津加藤家改易事件」がある。天秀尼が東慶寺第20世の住持になって間もなくの寛永16年(1689)会津47万石加藤家の家臣堀主水の継室と娘が境内に駆け込んできた。堀主水は若松城支城猪苗代城4000石の城主である。主君加藤嘉明は秀吉に仕え「賤ヶ岳の戦い」では7本槍の1人に数えられた。その後も秀吉の戦に参戦して秀吉を支えたが、「関ケ原の戦い」では、同姓の加藤清正らと東軍に与し、伊予の国松山20万石を領した。続く「大坂冬の陣、夏の陣」でも軍功をあげ、陸奥の国会津40万石に入封、仙台伊達政宗を牽制する役目をになった。この4年後嘉明は69歳で没し、嫡男明成が40歳で跡をついだ。主水は先代嘉明に仕え数々の武功をたて筆頭家老になっていた。主水は元々は多賀井姓であったが、大坂冬の陣で敵と一騎打ちとなり堀へ落下したが、それでも敵の首を取ったという剛勇により、主君嘉明から「堀」の姓を与えられた人物である。現在は代替わりした明成の治政方針と噛み合わなかった。苦言を呈する先代の古い部下は、新しい世襲の上司とはそりが合わない。それを上手く吸い上げる会社は成長発展する。2代目加藤明成は真逆の道を進んだ。寛永8年(1631)加藤嘉明が亡くなり、明成が家督相続すると、慶長16年(1611)に起きた会津地方の大地震で倒壊した蒲生氏時代の天守閣などを改修、加えて城下町を整備し始めた。この大改修の経費捻出のためか、①家臣の知行を不法に召し上げたり ➁農民の年貢取り立てを厳しくした ③商人た職人たちの運上金を増やすなど、民政をないがしろにし幕政を私物化していった。主水はこうした藩政の歪みについて明成に苦言を呈した。これに対し明成は主水に蟄居を命じた。これに抗議をすると家老職を罷免してきた。早い話、親父からの古い古参兵はもういらないよ と云う返答であった。これに怒った主水は2人の弟たちや一族郎党を率い、城に断絶の空鉄砲を打ち放って会津を出奔した。一行はかって「関ケ原の戦い」で西軍についた真田昌幸、幸村父子が隠遁した高野山金剛峰寺を目指したが、高野山は女人禁制であった。因みに女人高野は石楠花が見事な室生寺であるが、仕方なく主水は、妻と娘を縁切寺鎌倉東慶寺に恃むことにした。この時主水は56歳、継室奈江は30歳、一人娘の初は8歳であった。

 「東慶寺は開基以来350余年、弱き女の身を救わんとの発願を守り続けている」主水の要請に20世住持天秀尼は答えた。寺には「お台の方」かっての忍城甲斐姫も入っていた。彼女は10歳の頃より薙刀を習免許も習得していた。一方、高野山に入った主水一行は明成の政事を幕府大目付に訴えていたが、明成側も主水一行の引き渡しを高野山に圧力をかけ、幕府に対しても主水一行の身柄返還を要求した。これが寛永18年(1641)である。高野山は加藤家の要求に断りきれず幕府に訴えた。その2年後幕府は裁定を下した。主水一行の身柄は会津加藤家に引き渡され断罪されたが、この事件はこれで1件落着とはいかなかった。これに勢いついだ明成は、当然の如く東慶寺に生活する主水の妻と娘の身柄返還を要求してきた。妻奈江は会津家臣と一線を交える覚悟をした。ならばとお台の方も薙刀で加勢するといい、会津藩の理不尽に対抗した。二人をしばし制した天秀尼は、早飛脚で竹橋御門の千樹院に文を送って助けを求めた。「頼ってきた弱きおなごを守れないのは、鎌倉以来の当山の名折れであり、わたくし天秀尼の不覚、わが命に代えてもこの母娘を守り通す覚悟である」と。千樹院は急ぎ登城、弟3代家光と面会した。家光は天秀尼の書状を読むと、祐筆に上意書を書かせ、これを早馬で天秀尼の待つ東慶寺に届けさせた。早馬は翌早朝東慶寺に着いた。その日、会津藩大目付一行は大門を開け、結界というべき中門を通過、内門に入り参道の入口にまで侵入してきた。しかし、東慶寺の天秀尼は高野山の僧たちとは違った。「私の命と会津48万石をひきかえにするつもりか。幕府裁定はどうあれここは鎌倉東慶寺である。縁切寺の寺法が存在する。いかなる罪があろうとも、この寺で一旦預かった弱き女たちを、権力に負け引き渡すことはできぬ」と突っぱねた。加えて「東照権現様の許したる東慶寺に兵をすすめたのは、明らかに明成の失態」と上意が伝えられて、加藤家の家臣たちは寺を退去せざるを得なかった。それから一月後、幕府は会津藩加藤家に厳しい処分を下した。会津48万石は召し上げ、加藤明成は蟄居の身となった。しかし、先代嘉明の功績を考慮して、明成の子明友に石見国安濃郡吉永(島根県益田市)に1万石が与えられ、父明成も共に移り加藤家は存続した。翌嘉永19年、奈江と初母娘は会津に帰っていった。尚、明成に嫁いで来たのは家康養女高運院である。家康の異父妹多け姫が高遠城主保科正直の継室となり2男4女を産んだ、その4女高運院を家康の養女とし明成に嫁がせた。高運院は子をなさぬまま寛永12年にこの世を去ってしまったため、加藤家と幕府との縁が切れてしまった。この姫がもっと長生きしていれば、会津騒動はもっと違ったものになっていただろうし、改易事件に発展しなかったかも知れない。

 天秀尼は東慶寺の寺法を守り、頼ってきた女性たちを守り、ついに会津48万石を改易させた。一人の尼僧の信念により城を傾けさせ幕府までも動かした。この改易事件は徳川幕府の基本政策、「関ケ原の戦い」で秀忠の遅参により、味方に付き大幅な加増を受けた西国大名たちの減封、改易政策に上手くのせられた結界であった。1人の戦国大名の生き残りが、自分の自我と周りからは認められてないプライドを幕府に上手く利用され、堕ちていった結界であった。1人の愚かな君主により、路頭に迷うことになった家来やその家族たちは、自分の国、君主をどう思っただろうか。無理な政策を通して、周りの意見を取り入れなかった結界が「会津加藤家改易事件」であった。天秀尼はこうした武士にも勝る胆力を持つ一面、女らしい優しい繊細な一面を伺わせる和歌を詠んでいる。「咲くときは それとも見えず山桜 麓にしるき風の色也」「芝の戸も 春は錦ぞしきにくる 花吹きおろす 峯の嵐を」流暢でありながら、しっかりとした筆致のこの二首の短冊は今も東慶寺に残されている。次回は天秀尼に従って戦った「忍城姫君甲斐姫の物語」です。  <チーム江戸> しのつか


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