「姫たちの落城」第3章 大坂城物語Ⅲ 天秀尼①

 亡くなった豊臣のおじいさんが築いた大坂城が燃えている。何故このようになったのであろうか、幼い泰姫には解らなかった。側に仕える奥女中たちが、おばあ様である淀君様が政治に疎いからだとも、おじいさまの奥さま、寧々様が敵家康に内通したからだとか囁き合っているのをよく耳にした。つい先日まで大柄で優しいお父さまや、私を産んだ訳でもないのに大事に育ててくれたお母さま、お兄さまと仲良くお庭を散歩したのが夢のようであると泰姫は思った。

 文禄2年(1593)秀吉が老いてから秀頼は誕生した。イエズス会は秀頼のことを、素直で好ましい人柄としている。秀頼には千姫という正室がいたが妻とは恵まれず、奥女中であり側室である、成田直助の娘の間に二人の子供を持った。泰姫は(奈阿姫)慶長14年(1609)に生まれた女児である。父親秀頼は慶長20年5月7日「大坂夏の陣」で大坂城は落城、母淀君ともに23歳でこの世を去った。その5日後、若狭小浜藩京極忠高から秀頼の遺児泰姫を捕らえたと注進があった。程なく兄の国松も伏見で捕らえられた。男児国松は京都六条河原の刑場に送られたが、家康は女児泰姫については、義理の母千姫のたっての嘆願を聞き、尼僧になって寺に入る事を条件にその命を助けた。元和元年(1615)泰姫は、男子禁制の尼寺鎌倉五山のひとつ東慶寺に入山した。鎌倉東慶寺は円覚寺を本山とする臨済宗の寺である。今も鎌倉街道を挟んで円覚寺の向かい側に建っている。弘安8年(1285)北条時宗の正室覚山尼が開山、開基は時宗の子貞時、導師は円覚寺開山の無学祖元である。創建後は北条氏の庇護を受け、四世まで北条家ゆかりの女性が住持を務めた。寺領はおよそ112貫、石高に換算すると448万石、下総上総両国を合わせると500万石、円覚寺に次ぐ寺領を有した。東慶寺が朝廷の許しを得て定めたのが「縁切寺法」である。開山の覚山尼が「不法の夫に身を任せねばならぬ弱き女の身を救わん」と発願して以来この時まで330余年、「妻が寺に逃げ込み、夫と縁を切りたいと願ったならば、足掛け3年、満2年を経た後、妻は夫との縁を切ることがかなう」という。その子鎌倉幕府執北条貞時も「3年仏道を修行さすれば 不法な夫の圧政に悩む妻は離別することができる」とした。つまり寺に逃げ込んだ女性は、そこで俗世界との縁を切ることができる。そのことはあくまでも東慶寺が、如何なる権力からも不可侵であることは、いうまでもなかった。上野国太田の万願寺と共に駆け込み寺、縁切寺東慶寺に7歳になった泰姫は将軍息女千姫の養女として、19世住持璚山法清の付弟子となり入山した。彼女は小弓公方を名のった足利義明の次男、頼純の次女である。家康の御墨付けもだされ東慶寺寺法は更に強いものとなり、寺と江戸幕府との太いパイプが繋がれた。こうして寺の格式、権威は上がっていった。

 東慶寺に入り尼となり「天秀尼」を名乗り、第20世の住持となった寛永19年(1642)、造らせた雲版には「志は父秀頼の菩提の為なり」の銘文が刻まれている。また、天秀尼には弟がいたがという記録もある。「本朝高僧伝」など浄土宗の記録によると、その名は求厭(ぐえん)といった。落城の時3歳、付き人の機転により江戸に潜伏して捜索をかわした。のち増上寺にて学を修め僧になる。晩年伏見に住み80歳前後まで長生きしたという。「細川家記」によると、幕府から探索の指令を受けた忠興は「御1人は10歳、御1人は7歳なる秀頼様御子を探し出せ」と家臣に命じている。この時点では幕府は秀頼には2人の子供がいたと認識していた。「加藤家改易事件」の2年後の正保2年(1645)正月は前年からの寒さが続いていた。天秀尼は3度目の喀血をした。2月7日、8歳で初めて東慶寺に入った時と同じように梅が咲き乱れる朝、第20住持「天秀法泰尼」は示寂した。37歳労咳であった。東慶寺墓所には「當山天秀覚者 豊国神君之的子(嫡子)正二位右丞相秀頼公之息女也」の銘文が添えられている。次回天秀尼➁は 彼女の豪胆な気性を表す事件「会津加藤家改易事件」です。






0コメント

  • 1000 / 1000