「姫たちの落城」第3章大坂城物語Ⅱ 千姫②

 慶長8年(1603)千姫は当時7歳で11歳の秀頼に嫁いだ。千姫の母はお江の方、夫秀頼の母は淀君(茶々)、つまり親たちは浅井長政とお市の方との間の浅井三姉妹の長女と3女、従って本人たちは従兄妹同士の結婚である。当然のことながら政略結婚であった。豊臣のジジ(秀吉)亡き後、徳川のジジ(家康)と父(秀忠)は豊臣家に難癖をつけ、私の実家が嫁ぎ先を潰そうとしていた。慶長20年(1615)実家の祖父と姑の折り合いが悪く、とうとう御城に火がついてしまった。私は大野治長が勧めもあって、義母と夫の命を助けるために、城を抜け出し徳川の本陣に向かった。その訴えも虚しく、二人が逃げ延びた山里曲輪も炎上、死んでしまった。徳川の祖父は私(孫娘)が無事戻ったことを手放しで喜んでくれたが、父は何故生きて帰ったのかと 冷たい対応をみせた。真面目で融通性がない父は、味方してくれた諸大名たちの手前、素直に喜ぶ訳にはいかなかったと、私は後になって知らされた。

 秀頼との間に子を身ごもらなかったが、秀頼には成田氏(側室)との間に男子と女子の2人の子がいた。千姫に男の子が生れていれば、淀君も豊臣家の存続のために、もっと色々な選択肢を選んだかもしれない。現に妹江が娘ばかり産んだのち、家光を産んだ時は淀君は非常に喜んだという。淀君も1人の姉であり、1人の女性であった。千姫は19歳になっていた。家族を失った千姫は、1人大坂より江戸に帰ることになった。大坂より東海道を下り桑名に出て、伊勢湾を船で渡る渡し場で、伊勢国桑名城主本多忠政の嫡男忠刻が指揮を取っていた。これを駕籠から垣間見た千姫が忠刻に一目惚れして、再婚したとされているが、史実はそう甘いラブロマンスとは程遠い事情があった。忠刻の生母(忠政の正室)は、家康長男岡崎三郎四郎信康の娘熊姫(ゆうひめ)、彼女が本多家安泰のため父家康に、我が子忠刻の嫁に千姫をと願い込んだとされる。忠刻は徳川四天王の一人本多平八郎忠勝の孫、千姫が本多家に輿入れすれば徳川一門や譜代大名たちの結束となった。元和元年(1615)20歳となった千姫は、忠刻22歳と再婚した。忠刻に嫁した千姫の化粧料は10万石、本多家は桑名10万石から播磨国姫路15万石に栄転した。千姫は本多家に福をもたらした。千姫に与えられた化粧料は本多家の石高と同一であった。徳川家としては幼い頃から家のために犠牲になり、政権安定のために尽くしてくれた千姫への感謝、ねぎらいがこの10万石、本多家栄転に込められていた。因みに、この10万石の化粧料は千姫が独断で裁量できる私有財産である。以後、この武士階級での慣習が、江戸庶民の間でも一般化していった。九尺二間の住民である八や熊に嫁にきた江戸の娘たちは、両親が持たせてくれた嫁入り道具や持参金は、一緒になっても夫婦2人の共有財産ではなく、娘たち各々の私有財産であり、夫が勝手に使用できる筋合いのものではなかった。母親から「いざという時に使うんだよ」と教え込まれた娘たちは、無断で私の持参金、道具(両親の財産)を亭主が初鰹のために使うようなものなら、「寒い時 お前鰹が 着られるか」と、烈火の如く怒った。これが当時の江戸的考え方であった。次第に時代と共に、亭主の家庭内地位は下がっていった。

 姫路に栄転した本多家で千姫は10年を過ごした。幸千代、勝姫の一男一女に恵まれ、この10年間が千姫にとって1番幸せな時間であった。しかし、息子は3歳で亡くなり、母江も亡くなり、夫忠刻も寛永3年(1626)5月、労咳のため31歳で亡くなってしまう。人々は豊臣家のたたりだと噂した。同11月、本多家は世継ぎがいなくなってしまったために断絶した。千姫は勝姫を連れてまたもや江戸に戻り竹橋屋敷(北の丸公園)に入ったが、母江がいない実家はやはり淋しかった。母は1度、私は2度も夫と死別、千姫はもう再婚するつもりはなく、髪をおろして「天樹院」を名乗り余生を送ることにした。そうした千姫を弟である3代家光は手厚く歓待した。幼い頃、父親や母親に疎外された自分を、何かとかばってくれたのが姉千姫であった。家光の後押しもあり娘勝姫は、鳥取藩から岡山藩に入った池田光政の正室となり、多くの子に恵まれた。千姫は家光4男綱重を養子として養育に勤めた。さらに「大坂夏の陣」で亡くなった秀頼の遺児泰姫の養母となり、祖父家康に掛け合い、尼僧にする事を条件に一命を助けた。縁切寺として著明な鎌倉東慶寺に入山させ、寺の伽藍造営に手を貸したり庵主の修行をサポートしながら、色々と相談にのり泰姫=天秀尼の成長を見守った。寛文6年(1666)千姫は70歳の波乱に満ちた生涯を閉じ、家康母於台も眠る小石川伝通院に葬られた。次回は豊臣家の血をひく最後の遺児「天秀尼の物語」です。<チーム江戸>

 


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