「姫たちの落城」第3章 大坂城物語Ⅱ 千姫
慶長3年(1598)自分の死を覚悟した秀吉は、家康や前田利家などの五大老や三成などの五奉行に、我が子秀頼への忠誠を誓わせ、山城国伏見城に生まれて1歳を過ぎたばかりの家康の孫娘、秀忠と江の長女徳川千を、秀頼の正室とするよう約束を取り付けた。慶長8年(1603)4月中旬、前後を警護の武士団や大勢の侍女に護られた輿や駕籠が、江戸城の大手門を後にして伏見城に向かった。7歳の千姫の輿の後には生母江の輿も続いていた。千姫の入輿は「関ケ原の戦い」の後、征夷大将軍に補任され、天下の覇権を握った家康の自信の現れであり、家康が本来もっている律義さの現われでもあった。千姫と豊臣秀頼11歳との婚儀は、家康が秀吉との約束を7年越しで守ったことになった。ここで豊臣家との縁につながることは、江戸幕府の権威を高めることにつながった。一方、豊臣家からすれば千姫は貴重な人質であった。淀君は幼い千姫を豊臣家の家風に合うように養育し、豊臣家の女主人にしょうと考えていた。しかしこの時期、家康は豊臣家を徳川政権の一大名として取り込もうと目論んでいたが、淀君は断固拒否の姿勢を取っていた。淀の妹江はこの時秀忠との間に2番目の子を身ごもっていた。7月に生れたその娘は「初」と名付けられ、生母江の次姉初(常高院、京極高次の妻)の養女となり、成長して京極忠高の正室となっている。江は京に上った機会に、大坂城の女主人姉の淀君に面会を申し込んでいた。しかし、姉からはいい返事が返ってこないでいた。徳川家に嫁入りした妹の江に対し、立場が逆転した淀君は素直に会う気にはなれなかった。しかし、江が秀忠に嫁入りした際には、江の最初の夫秀勝との娘・完子を預かり養育し、豊臣家の威信をかけて五摂家に輿入れさせた。その血筋は現代の皇室にもつながっているという。本来妹たちに優しい淀君も一人の女性であった。自分が恵まれた立場にある時期にはそれを奢り誇示したかったが、陽が傾きかけたこの時期には妹にも会いたくなかった。
5月15日、千姫一行は家康が待つ京・伏見城に到着。千姫の婚礼衣装や道具は、徳川家の御用商人たちが調えていた。5月27日、東山や祇園を散策、7月28日、宇治川の御船場から御座船に乗り換えて、大坂城へ向かい本丸御殿で姑であり叔母の淀君と対面した。天下の権威を豊臣家から奪った徳川家の孫娘を迎え、淀君はじめ城内の人々の目は千姫に対して冷ややかであった。千姫を輿入れさせ徳川の親戚として豊臣家を残したかった家康に対し、天下の権力、我が子秀頼の立場を夫秀吉の時代に戻したかった淀君は対立、家康が自分の年齢を考慮したシナリオを読み取ることが出来ずに自滅していった。また、家康も前田利家を同伴させ謁見した際の秀頼を見て、その偉丈夫に驚き、亡き祖父浅井長政の面影を感じた。我が息子秀忠は負ける。この秀頼を亡き者にしない限り、自分の年齢を考えて、徳川の永遠の政権は有り得ないと、家康考えるようになっていった。
慶長15年(1610)「京都方広寺」大仏殿工事開始、同17年完成。この年千姫の「鬢(びん)そぎ」の儀が行われた。男子の元服にあたる行事である。基盤の上に立つ千姫の髪を秀頼が小刀を使って少し切り取った。これ以降2人は本当の意味での夫婦となる訳であるが、秀頼は側室成田氏の間に男子国松と女子泰(天秀尼)がいたが、千姫との間には子供は恵まれなかった。実際に千姫に男の子が出来ていたなら、徳川幕府の対応は変わっていた可能性がある。慶長19年(1614)方広寺の鐘の鋳造が終わり、8月3日には大仏殿供養、8月18日には開眼供養の予定であったが、7月以前より家康が鐘銘に刻まれた「国家安康 君臣豊楽」の文字に難癖をつけたため、片桐且元が釈明のため駿府に向かった。徳川幕府の対応は冷ややかで、示された条件は、①秀頼が大坂城を出て伊勢か大和に移封、➁秀頼が諸大名と同じく駿府と江戸に参府 ③淀君を人質として江戸へ下る、何れかを選択するように伝えられた。且元と入れ違いに淀君の使いとして駿府に下った、乳母大蔵卿(大野治長の母)への対応とは大きな相違があった為、且元は徳川方の人間である、裏切り者であるとされ、且元は命の危険を感じて大坂城を退去した。且元も大蔵卿も、豊臣家の内部分裂を仕組んだ家康に手玉に取られたのである。この辺りは更年期をむかえた淀君の精神状態を巧みについだ、家康とそのブレーンたちの心理作戦の勝利である。
同年10月11日、家康は豊臣家を討つべく駿府を発った。続く秀忠も23日「関ケ原の戦い」の汚名挽回と江戸を発ち、日に夜をついで東海道を駆け上り11月11日京都に入った。15日、家康、秀忠連合軍は大坂城に向けて出陣、19日より「大坂冬の陣」が始まった。大坂城への連日の砲撃により、城の中の淀君以下侍女たちは恐れをなし、12月上旬には講和交渉が始まった。戦経験の豊富でしたたかな家康の脳細胞に、城の中で贅沢三昧生活をしてきた淀君の脳細胞が勝てるわけがなかった。当初外堀だけの埋め立てで講和条約を結んだつもりが、翌年の元和元年(1615)正月20日頃までの約1ヶ月余りの間に、またもや家康の手玉にとられ、内堀まで埋めたてられ大坂城は裸の城になった。当初の目的を早急に達成した德川軍は、悠々とそれぞれの国へ戻っていった。元和元年4月25日、家康は豊臣方に不穏な動きもあるとしてまたもや出陣した。時間との戦いである。こうして「大坂夏の陣」が始まった。樫井(泉佐野)などの合戦に負け、幸村や諸将は最期を覚悟した。千姫は淀君、秀頼の助命嘆願のため大坂城を脱出し、岡山の陣所に届けられ家康と面会した。家康は孫千姫の無事喜んだが、父秀忠は対面しようとはしなかった。対面することにより決断が鈍り、今後の作戦に支障をきたすと考えた。徳川方の面子も考えたことにより、こうした態度に出たものと考えられる。こうした千姫の努力の甲斐もなく、5月7日、豊太閤夢の跡の大坂城は炎上。5月8日、義理の母淀君49歳と夫秀頼23歳のふたりは、大坂城山里曲輪で炎に包まれ自決、豊臣家は滅亡した。次回はその後の千姫に続きます。 <江戸純情派 チーム江戸>
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