「姫たちの落城」意は男子に劣らず 第3章 大坂城物語 Ⅰ

<千姫、天秀尼、甲斐姫 それぞれの生涯>

 「大坂城」は摂津国、河内国、和泉国を南から北へ貫く「上野台地」の北端に位置、信長も日本一の境地(政権最適地)とみなし、「安土城」築城のあと、この地に最終的な政権を築く構想をもっていた。血筋からみてもたいした高貴の出自でもなく、家系からみてもおよそ天下の支配や統治権を掌握して、日本の君主になる身になるには、ほど遠い秀吉であった。その秀吉は、世間からみれば豪壮と威厳を放つ信長を超え、大坂に巨大な城を築くことにより、天下人の評価を己に集中させようと目論んだ。秀吉は大坂城を規模、華麗さなど全ての面で信長の安土城を凌駕し、安土城をかすませることで信長を超えようとした。秀吉も狙った大坂城の地域は、古くは仁徳天皇の難波高津宮の故地であり、光徳天皇の難波長柄豊碕宮や聖武天皇の難波宮があった場所である。現在、大坂城の南側に聖武天皇の時代の大極殿跡の基盤がある。しかし、この地は山城国に都が移ると、中世には単に熊野詣での出発点となってしまう。ここの地理的存在意義は、①大坂は五畿内の中心にあたるという事であった。御畿内とは山城、大和、摂津、河内、和泉の五ヶ国をさす。➁本願寺があった「生玉の庄」は「四辺広大」であり、大坂湾に注ぐ川幅260間の近江川(後の淀川)の他、中津川、大和川といった大河がめぐる河口部のデルタ地帯の高台にあり、防衛的立地に恵まれていた。③大坂湾、淀川より平安京(京都)へ10里余、堺津へは3里余と水上交通に恵まれていた。戦国時代の城郭は、大体において辺鄙な場所に築かれていたためこうした利点がなく、遠隔の地から必需品を購入しなければならなかった。また、時代の経過とともに戦いの規模は大きくなりその頻度も増していった。従って常に大人数を確保しておく必要性にせまられていたが、山城ではこれらの事柄がが困難となっていた。戦国時代から安土桃山時代にかけ、城及び城下町は平地に移転、構築されていった。安土城に比べここ摂津生玉の庄の高地は、比較にならぬ程の地の利に恵まれ、信長も石山本願寺を討ち負かしたしたのちは、安土城の次はこの地と決めていた。④城下町を建設する地勢が頗る良かった。石山本願寺は南方へ「上野原台地」とよばれる帯状の陸地に立地、秀吉はここを整備し天王寺から住吉を経て堺まで、店舗や住居を建て「大坂の山下」とよばれる街を建設しようと計画した。秀吉はそれまで別個な町であった天王寺、住吉を、大坂の天王寺、大坂の住吉にしようと夢見ていた。

 「石山本願寺」は、明応5年(1496)8世蓮如上人が「山科本願寺」の支坊として建立したのに始まる。天文元年(1532)山科本願寺が近江の六角氏や京の法華宗派に襲われ焼かれると、10世証如上人は摂津石山を本願寺の拠点と定めた。天文年間(1532~55)には既に摂津の名城(足利季世記)と評される一大城郭となっていた。この地域には当時人口は5万人以上が住んでいたと云われ、「寺内町(じないまち)」と呼ばれ、大坂の原型となっていった。天文2年(1533)京山科から移転してきた浄土真宗本願寺は、加賀国から城造りの職人を集め、掘割や土塁、櫓を築き、武田、上杉、毛利などといった大名たちと連携していった。元亀元年(1570)信長はこの地を中国地方進出の拠点とすべく、11世顕如上人に立ち退きを要求したが、勿論拒否され戦いとなった。「石山合戦」「石山本願寺一揆」とも呼ばれるこの戦いにおいて、毛利水軍や村上水軍が運び込んだ籠城戦の食糧を糧に、来世の浄土を信じる浄土真宗の信徒たちは、信長との和議までの元亀元年から天正8年まで、足掛け11年にわたって徹底抗戦を続けた。この時代「一揆」といえば「土一揆」、即ち侍たちにより組織された平民の一揆を指した。従って一揆には侍も平民も含まれ、戦国大名の雑兵軍団も実態からみれば土一揆と同じと云えた。天正8年(1580)、蓮如上人は正親町天皇の勅令に応じて信長と和議を結び、紀伊の国(和歌山)鷺の森に退去した。尚、息子の教如は徹底抗戦を主張したため、親子の仲は不仲になったが8月には退去した。時代は下り、慶長7年(1602)家康は教如に京烏丸六条の寺地を寄進、本願寺12世に据えた。この時から本願寺は東西に分立した。家康は信長同様に浄土真宗本願寺の秘められた力を恐れたためともされる。蓮如親子が退去した石山本願寺は、信長勢によって火がつけられ、三日三晩燃え続けたという。

 石山合戦終結2年後の天正10年(1582)「本願寺の変」で、信長はやっと手に入れた石山本願寺の跡地に「大坂城」を建てる前にあっけなく転んだ。信長の基盤を踏襲した秀吉は、翌天正11年4月「賤ヶ岳の戦い」で宿敵勝家を破った。信長の後継者としての地位を確立を目指し、信長の宿老であった池田恒興を摂津から美濃へ移封、9月ここ大坂に安土城を凌ぐ城を構築する事を決めた。第1期工事は、六甲や生駒山地から石材を運び、当初2~3万人程度で始まったが、やがて遠国の大名たちにも動員がかけられ、程なく毎日5万人規模となり、石山本願寺の縄張りを基礎に既にあった土塁を総石垣で囲い、そこに新規の本丸が建てられていった。第2期工事は、天正14年(1596)から始まる。聚楽第と並行して二の丸工事に着手、従事労働者は京、大坂それぞれ6万人に及んだ。第3期は文禄3年(1597)から始まり惣構え堀の普請が始まる。城の最も外郭部の防御施設である。「大坂冬の陣」では家康の狡猾な策謀により、言い方を変えれば豊臣方の幼稚な判断によりあっけなく埋め立てられ、「夏の陣」では裸の城で最後の戦いに挑む事になる。この時期は朝鮮出兵も難航を極めていた。慶長3年(1598)死を覚悟した秀吉は、新たに城壁をめぐらし大坂城を難航不落の城とするように命令、城壁地内に全国大名たちの妻子が人質として住むための屋敷を造らせた。これらの一貫工事は文禄2年に生まれた秀頼を守るための措置である。「関ケ原の戦い」緒戦、東軍についた武将たちの妻子を幽閉し、戦いを有利に運ぼうとした三成は、細川ガラシャの壮絶な自害によりもろくも頓挫、かえって東軍の結束を高めてしまう結果となる。慶長5年(!600)9月「関ケ原の戦い」、同19年10月「大坂冬の陣」翌元和元年4月「大坂夏の陣」を経て、秀忠は父家康の死(元和2年)の3年後、大坂の地を幕府の直轄領とし、翌年から10年がかりで大坂城を再建するために、西国に領地を所有する64家の大名家を動員した。家康に代わる自分の威信を確立するためである。大坂城の巨大な石垣はこの時に持ち込まれた石である。こうして「石山本願寺」を埋め立て、「豊臣大坂城」を埋め立てて、そのうえに再生された「徳川大坂城」の規模は、居城江戸城を上回り、徳川幕府の威容を全国に知らしめた。時代は下り幕末、14代家茂、15代慶喜は江戸の御浜御殿(浜離宮)の船着き場から蒸気船に乗り、大坂城に入り、京へ上るのが常道であった。次回Ⅱはいよいよ千姫の登場です。

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