「姫たちの落城」ちりぬべき 時知りてこそ 細川ガラシャ編

シリーズ「姫たちの落城」意は男子に劣らず 第2章 細川ガラシャ

「本能寺の変」から2年後の天正12年(1584)玉は味土野から大坂玉造にある細川家の屋敷に戻されたが、夫細川忠興の極端な嫉妬心によって、味土野より厳しい幽閉と監視の生活が続いたと、宣教師フロイスは記している。玉は丹後の勝竜寺城と玉造の屋敷を往復する以外、邸宅の外へ出ることは忠興から禁止されていた。玉は味土野に2年間幽閉されていたころ、父光秀が起こした「本能寺の変」のこと、玉がいない間に忠興が側室に産ませた子供のことなどで悩んでいた。玉は忠興に不信感を抱き、離別を考えるようになっていた。武家社会においては家存続のため、側室を置くのは当然のことであったし、キリスト教の世界では離婚は認められていない。それは十分に理解した上であった。玉はもとより仏教徒として模範的な武家女性であった。しかし「本能寺の変」による運命の激変、家族たちとの別れ、加えて忠興に側室が置かれ子供まで産まれたことで、今まで帰依してきた仏教の教えでは心安らぎが見いだせないでいた。

 忠興は友人高山右近から、神とキリスト教に関する様々な事柄を聞き、それを玉に語ってくれた。玉は聞かされた事柄について時折考え、その事柄の問題点を時折考え、本質を根本的に知りたいと思うようになった。しかし、このことについては忠興には話さず、その機会が来るのをじっと待っていた。その時は天正15年の秀吉による「九州平定」であった。薩摩の島津義久を攻略すべく、7月忠興は九州へ出陣していった。この日は丁度彼岸の中日であった。玉は病気を装い部屋で伏していた。やがて頃を見て侍女たちに紛れて屋敷の外へ出た。彼岸の墓参りに行くようになりすまし、監視の目を誤魔化した。教会に着くと、宣教師から長い時間教示を聞き、玉はそれまでの問題点を質問、問いただした。フロイスは玉のことを「実に鋭敏で繊細な頭脳の持ち主である」と評している。この頃玉は真剣に忠興との離別を考えていた。忠興は戦国武将としては優れていたが、家の中では短気で嫉妬心の強い夫であった。秀吉は九州平定直後、「バテレン追放令」発布、忠興はそれに追従して切支丹を弾圧する姿勢に変わっていった。玉が洗礼を受けたことを忠興が知れば、秀吉の命令に従って迫害する可能性があり、玉はそれが起きたら殉教するつもりでいた。

 秀吉は「バテレン追放令」を発布したが、ポルトガルとの南蛮貿易は禁止しなかった。ポルトガルの商人たちは、マカオで中国産の生糸を仕入れ、それを長崎で売って日本の銀を手に入れていた。この銀をマカオへ持っていき、それで生糸を仕入れるというサイクルの中で利益を確保していた。日本イエズス会はその商人たちの組合に出資、日本における布教の経費を賄っていた。秀吉が貿易を禁止しなかったのは、それがもたらす利益が馬鹿にならなかったらである。夫忠興の厳しい監視によって、教会に訪れることが出来ない玉は、このバテレン禁止令によって、自分が洗礼を受けられなくなるのではと危惧していたが、京都に残っていた宣教師オルガティーノの指示によって、既に洗礼を受けていたマリアを介して「代洗」という方法で行われることになった。玉に代洗を授けた侍女マリアは、儒学者清原枝賢(しげかた)の娘いとであるとみられている。いとの父は切支丹で。いとも子供の頃から切支丹に親しんでいた。たまはマリアから洗礼をうけ、洗礼名「ガラシャ(神の恩寵の意)」となる。玉は次第に笑顔を取り戻していったが、夫忠興はこれを知って激怒、ガラシャや回りの人間に迫害を加えたが、玉を離縁することなく、愛憎の中、次女、三女が生まれた。

 慶長5年(1600)6月16日、家康は会津の上杉景勝を討つと称し大坂城を出発して、18日に京伏見城に入った。三成との戦いとなればこの城は真っ先に討たれるであろう。家康はこの城の守将を鳥居元忠に命じた。元忠は今川人質時代からの間柄であった。酒を酌み交わし、昔話をして今生の別れを惜しんだ。それを待っていたかのように動き出したのが西軍石田三成である。7月19日、西軍が伏見城を攻め「関ケ原の戦い」の幕が切って落とされた。7月25日「小山評定」の後、東軍は軍勢を反転させ、8月14日福島正則や池田輝政らは尾張清洲城に到着した。彼らは江戸城に待機していた家康に出陣を要請した。家康はまだ秀吉恩顧であった彼らを信用しきれないでいた。大坂城近くになれば、また秀頼の声掛けがあれば、いつ西軍に転ぶかもしれないと危惧していた。家康は家臣の村越茂助を清洲城に遣わし「皆の手出しなく候故 御出馬なく候。手出しさえあらば 家康御出馬にて候はん」と口上を伝えさせた。各将の質問にいちいち答えず、この言葉だけを繰り返した。なまじ臨機応変に応える武将ではなく、むしろ朴訥な茂助が選ばれた。気の短い正則らは何度も繰り返されるこの言葉の裏に、家康の督促を察し、家康に不快を感じさせることを恐れ、自己の保身をかけて戦場での働きを家康にアピールするため、8月22日、3万5千の軍勢で岐阜城に迫った。家康の氷の上を踏む作戦勝ちであった。岐阜城を守っていた織田秀信(信長孫三法師)は降伏、高野山に送られた。一方、細川幽斎は忠興留守の間は宮津城を守っていたが、緒戦が始まると支城の田辺城に移り籠城戦をとった。しかし、5千ほどの城兵しかいなかった。そこへ1万5千の西軍が取り囲んだ。7月20日からの城攻めは次第に持久戦となっていった。幽斎は当代きっての歌道の一人者であった。朝廷はこの戦いにより「古今伝授」が絶えることを恐れ、9月3日、後陽成天皇は勅命をだし休戦させ、幽斎は田辺城を開城、九死に一生を得た。

 一方三成は東軍に属した大名たちの戦意を削ぐべく、大坂の屋敷に居住していた大名の妻子たちを人質にとり、西軍に取り込もうと画策した。この動きを先ず察知したのは、のち土佐一国の主となる山内一豊の妻千代ある。千代はこの機密情報をこよりにして夫一豊の陣に届けさせた。細川家はその第1目標にされた。細川家は勿論これを拒否した。玉も父光秀の仇秀吉が築いた大坂城へ入る気は毛頭なかった。7月17日、再三の拒否に業を煮やした三成の軍勢が、玉造の細川邸を取り囲んだ。忠興は会津へ出陣する際、家老にもし玉が人質に取られるような場合は、玉を殺して屋敷に火をかけ、切腹するように厳命していった。妻や家族、家来たちの人命よりも、細川家の存続を意図した厳命である。家族全員を犠牲にすることによって、家康への忠誠を示そうと図った。因みに、関ケ原の戦い以降、忠興は長男忠隆の正室が17日逃げたことを激怒した。忠隆は千世姫を弁護して口論となり、結果、忠興は嫡男を廃嫡にしている。忠興はあくまでも自己の保身、家の存続を優先させた。忠興は戦場においては武勇に勝っていたが、いざ戦場を離れると身勝手な自己中心的な未発達な一人の男であった。玉は夫忠興の意向に真逆の指示を出した。屋敷にいた次女多羅姫と三女万姫を教会に逃げさせ、長男忠隆の正室千世姫(前田利家娘)と忠興の叔母を隣接していた宇喜多秀家の屋敷に避難させた。秀家の正室も利家娘の豪姫であるため、この縁を頼った。玉も豪に「御一緒に」と懇願されたが、玉は私が生き残れば家康も他の武将たちも忠興の忠誠心を疑うであろうと判断、死を決っした。

 玉は自分は切支丹であるから自殺は出来ない、故に自分を討ってくれるように老臣に命令した。玉は礼拝室に入りイエスに最後の祈りを捧げた。老臣少斎はなぎなたで玉の胸元をついた。玉は信長が本能寺で紅蓮の炎に包まれながら、父光秀を罵倒している姿を思った。父光秀の因果が、生き残った私に応報してきたと。ガラシャは德川軍に与した忠興の正室であるが故に壮絶な最期を迎えた。そして自分の最期は、父光秀の汚名をそそぐものであると思いたかった。「ちりぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人もひとなれ」38歳の壮絶な死であった。三成は関ヶ原緒戦で大きな判断ミスを犯した。玉に手痛いしっぺ返しを受けた。「意は男子に劣らず」戦国武将であるべき三成は、やはり戦場での経験が薄かった。秀吉の下で算盤をはじき、仲間の働きをチェック、それに自己の裁量を加えて上司に報告する総務部総務課の人間であった。戦国の世に生きる姫たちの心のうちが、読める器量がなかった。女性は脅せば従うものと甘く見ていた。その結果がガラシャの壮絶な死であった。ガラシャの潔いよい死は、徳川に対する最大の忠誠の証となり、忠興に最高の贈り物をした。ガラシャの気質に似た姫が深谷にもいた。家康の甥、松平康直は25歳で死去した。家康は残された幼い娘漣姫を可愛いがり、養女として慶長5年6月、遠江国横須賀3万石の有馬氏に嫁がせた。漣姫17歳、夫は亡き父と同じ年生まれの32歳であった。慶長5年「関ケ原の戦い」で、有馬の家臣たちは漣姫を、義父の居城の播磨国三木か、横須賀に退避させようとした。しかし姫は「お前たちの言葉は有り難いが海路は長い、仮に訳あって敵の手に落ちたら、わたくし一人の恥辱たるのみならず、殿の面目を汚すこと大なり」として「もし強いて敵が入城を迫れば、我潔くよく自裁するのみ」と謝辞を伝えたという。家臣たちは漣姫の毅然とした言葉に目が覚め、脱出計画は即中止となった。蓮姫はこれより賢婦人、名婦と語り継がれたという。ここにも「意は男子に劣らず」の姫がいた。

 玉が絶命したのち、残された家来たちは屋敷にまかれた火薬に火をつけ切腹した。その紅蓮の炎は大坂の各地からも見ることができたという。細川家と同じように、肥後熊本の加藤家でも、清正の母親と正室を熊本へ脱出させる機会を伺っていたが、監視の目が厳しく思うに任せないでいた。じりじりと焦っていた7月17日、玉造の方で大きな炎が上がった。加藤家を監視していた兵たちは、「大事発生」と総勢で玉造方面に向かっていった。これを家臣たちは見逃さなかった。二人を大きいつづらに入って貰い、裏の堀割りから小舟に乗せ、大坂の湊へでて、そこで待っていた加藤家の船に移動、無事に肥後熊本へ戻ることができた。細川ガラシャの死が奇しくも二人の命を救った。ガラシャの壮絶な死の知らせは、忠興たちが三成挙兵の知らせを受けて小山から反転、大坂へと侵攻している過程で届いた。忠興はこの知らせを聞くや号泣したという。玉を愛していた一人の男が、そこに泣き崩れていた。参陣していた諸大名たちはその姿を見て、三成憎しの思いを益々強めていった。後の「関ケ原の戦い」の論功行賞では、忠興の戦場での働き、幽斎の田辺城籠城戦、そしてガラシャの壮絶な死は、徳川家の勝利に大いに貢献したとして、宮津18万石の大名から、肥後熊本39万9千石の大大名に国替えとなり、明治維新まで細川家は存続した。

次回「姫たちの落城」第3章は、大坂夏の陣が舞台、家康の孫千姫と鎌倉縁切寺東慶寺を継いだ天秀尼をお送りします。乞うご期待です。



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