「姫たちの落城」第3章大坂城物語Ⅳ 忍城と甲斐姫姫
「忍城」(埼玉県行田市)は利根川と荒川に挟まれ、中山道の南に望む場所に位置、城の周囲は小さな島が散在している沼地で、城はその真ん中に浮かんでいるように見えるため、人々は忍城のことを「浮城」と呼んだ。江戸期を通して北関東の交通の要所であったため、川越城と共にこの忍城は代々譜代大名が封じられてきた。忍城は文明2年(1479)武蔵の名族成田氏が築いたとされている。甲斐姫は元亀3年(1572)成田氏長の長女として生まれた。男子が生まれなかったため、父は武術の稽古や学問をまなばせた。甲斐姫は才色兼備の姫に育っていった。天正18年(1590)秀吉は、天下統一にむけ臣従しない小田原北条氏の討伐を開始した。北条派の父氏長は秀吉勢を迎え討つため小田原城に籠城した。留守を任されたのは19歳の甲斐姫と義理の母親であった。梅雨も始まっていた6月4日、秀吉配下の石田三成が2万3千の兵を率いて忍城を囲んだ。守る城兵は僅か300人、これに百姓、町人、僧侶など約2300人が加わった。6月5日、忍城への道は狭く、折からの雨で深い田や沼に足を捕られた三成軍は、甲斐姫の軍に弓や鉄砲を撃たれ1700人を超える死傷者を出して敗走した。負けた三成は兵糧攻めに作戦を変更、南側の荒川から北側の利根川右岸まで、城の周囲に7日かけて全長7里≒28㎞の堤を築いて城を囲んだ。この堤は今でも「石田堤」として城を見据えているが、この内側に利根川と荒川の水を流し込んで、忍城を水攻めにしようとする作戦である。鳥取三木城などでみられる秀吉お得意の戦術である。数日かけて城は徐々に水に浸かっていったが、いつまでも肝心の城は水没しなかった。忍城は水に浮く「浮城」だと云われる所以はここにもあった。6月18日、この日は朝から豪雨に見舞われた。三成は「関ケ原の戦い」でも、西軍への確約を取り付けるため、驟雨の中騎馬で諸将たちを巡っている。余程水難の相があるとみえる。この豪雨で苦労して築いた堤防が決壊、濁流は自軍に逆流して270余人の死者を出す始末となった。7月に入り、この負け戦さを聞いた秀吉は、三成の応援に浅野長政、真田昌幸、幸村父子、長束正家らを向かわせた。これに対し甲斐姫は兵を率いて出陣、またもや敵は1700人余りの死傷者をだして敗退した。甲斐姫の軍勢は凡そ3万の軍勢に対して勝利を収めたのである。この戦いにより、三成は以後「戦下手(いくさべた)」のレッテル貼られる事になる。この戦いを裏で作戦指導したのは秀吉であるが、300の城兵にここまで手こずる三成の才覚は、5玉の算盤の上だけの話であって、決して大勢の人は動かせえない人物であったことが伺われる。甲斐姫たちの善戦虚しく、小田原北条氏は滅亡した。北条氏最後の砦・忍城はついに開城した。長い間共に戦った城兵たちや農民、町人、僧侶たちは、勝どきを上げて誇らしげに城を出ていったという。敗者となった成田氏長とその一族は、会津の蒲生氏郷預けとなった。秀吉は甲斐姫の美貌と武勇を賞し自分の側室の一員とした。秀吉の悪癖がまたもや出た。
矛を収めた甲斐姫は大人しく秀吉の側室に収まり「お台の方」と称して、淀君に秀頼が生まれると、守り役として甲斐甲斐しく秀頼を慈しみ育てていった。しかし、豊臣家の安泰は長くは続かなかった。元和元年(1615)5月「大坂夏の陣」、同7日大坂城炎上、翌8日淀君秀頼母子自害、豊臣家は滅亡した。お台の方(甲斐姫)は国松丸と泰姫を連れて大坂城を脱出するが、京で捕らえられ国松丸は処刑されてしまう。泰姫は女子故に、また養母千姫のたっての願いにより、一生婚姻を認めない尼僧にするという条件で許された。縁切寺である武蔵の国鎌倉東慶寺に入山、20世住持天秀尼となり苦しんでいる女人救済に力を尽くした。お台の方も泰姫の傅役として共に東慶寺に入り、天秀尼を一生見守り続けた。特に会津加藤家の不法侵入に対しては、寺法を守るべく、堀主水の妻子を助けるべく、忍城以来の薙刀を握って闘おうとした。まさに「意は男子に劣らず」の気概である。戦国の姫が鎌倉東慶寺にも健在した。お台の方の没年は不詳であるが、墓は彼女の願い通り、正保2年(1645)労咳で亡くなった天秀尼の墓の隣に建てられた。二人の墓は今でも仲良く並んで、松岡山から東慶寺の境内を見守っている。お台は天秀尼の実の母親だったかもしれない。「大坂城物語」了
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