「姫たちの落城」第4章 信州上田城と小松姫ⅰ

 尾張の織田信長、駿府の今川義元に挟まれた岡崎に生まれた徳川家康は「桶狭間の戦い」で長い人質から解放され自立したが、その後同盟を結んだ信長にいいように使われた。そういう家康に酒井家と共に、安祥松平家(徳川本家)の時代から、最古参の譜代として仕えた武将に本多忠勝がいる。忠勝は通称平八郎、蜻蛉が槍先にとまると真っ二つに切れるという、名槍「蜻蛉切」を引っ提げて、生涯57回の合戦に参陣、傷ひとつ負なかったという。こうした一連の戦いで、秀吉からは東国一の勇士と賞賛され、立花宗茂と並んで、戦国武将最強の武将と云われた。「家康に過ぎたるものが二つある 唐の頭に本多平八」唐の頭とは当時流行っていた兜などにつけるヤクの尾毛の飾り物である。家康入府後は里見家に備えるため、上総の国夷隅郡大多喜城に10万石で入封、「関ケ原の戦い」ではその功績で伊勢国桑名10万石に移封、同年で仲の良かった榊原康政とともに「徳川四天王」に数えられ家康を支えた。今回はその忠勝自慢の娘「小松姫」の物語である。

 元亀4年(1537)武田信玄の死から名門武田氏の滅亡が始まった。天正3年(1575)「長篠の戦」で騎馬軍団を率いた勝頼は、機動部隊の織田德川連合軍に敗退、同10年3月「天目山の戦い」で自刃した。武田の遺領を支配するのは当然信長であった筈であったが、その信長は6月、三成に襲われ「本能寺の変」で高転びに転んで横死した。その結果、武田の遺領をめぐって徳川、北条、真田の三者の思惑が絡み合い、争いが顕在化していった。徳川は甲斐から、北条は東信濃から、真田は北信濃からそれぞれ勢力を広めていき、沼田領をめぐって三者の関係は緊張度を高めていった。旧武田の家臣であった真田昌幸は、家名存続のため三者の情勢の変化を読みながら、主君を上杉から北条、徳川へと鞍替えしながら生き残りを図った。真田家の初代は祖父幸隆、幸隆が信玄の謀臣として上杉謙信の南下を阻止してきた。幸隆がいなければ信玄の上洛作戦はなかったといわれている。残念ながら信玄はその途上で病死、信長、家康は目の上のたん瘤が落ちた。次代昌幸は武勇と知略で徳川軍を2度に渡って打ち破っている。秀吉は昌幸のことを「表裏比興の者」と評した。スケールが大きすぎて捉えきれない曲者としながらも重用、昌幸と幸村に信州上田を、信之には上州沼田をのちに与えている。

 天正11年(1583)真田昌幸は信州(長野県)上田に築城を始めた。因みに上田の町は長野県内でも雪が少なく温暖で、長野県内の住民の皆さんがリタイア後、住みたい町ナンバーワンにあげている。そうしたなか家康は信長死後、天下をめぐって秀吉と対立、翌12年「小牧・長久手の戦い」において、秀吉に対抗する為に北条氏と手を結ぼうと策略した。この時北条氏は条件として、昌幸の領地である上州沼田領の引き渡しを要求してきた。家康は秀吉に勝利する為に北条氏の援助を必要とした。家康は自軍の勝利、利益誘導の為、小大名が血と汗で掴み取った上野国(群馬県)沼田領の土地を、大国の駆け引きの材料に簡単に渡せと要求したのである。家康から我が土地をそんな駆け引きの材料にされるいわれはない。昌幸は怒り心頭に発したが、そのようなことはおくびにも出さず、あっさり拒否した。昌幸は家康と真っ向立ち向かった。昌幸が利根川と赤谷川の合流地点(群馬県利根郡みなかみ町)に、沼田城を攻略する前線基地として築いた城が「名胡桃城」である。天正10年「天正壬午の乱」をへて独立した真田家と北条は争っていた。そこへ、家康が沼田領の約2/3を北条へ戻せと云ってきた。当初、まだ家康の配下にあった頃は、家康が上田城の修復をしているが、その城に昌幸以下真田軍は立てこもった。家康は力ずくで真田を屈服させようと天正13年8月、約7千の兵を上田城に差し向けてきた。「小牧・長久手の戦い」のかたわらである。迎える真田軍は約2千、昌幸はこの劣勢を挽回しようと家康と対峙していた上杉景勝に次男幸村を人質として送り、上杉軍5千を後ろ盾にした。その戦いのなかで昌幸は秀吉とも連絡を取っていた。10月17日早速秀吉から返答がきた。この辺りが秀吉の人心掌握のうまさである。「その方進退の儀、いずれの道にも迷惑せざるように申し付くべく候間 心易かるべく候」徳川軍は二ノ丸までまで攻め込んだが、昌幸に集中攻撃を受け敗走した。この戦いの結果は、死傷者が徳川軍約1300人であったのに対し、真田軍わずか40人であったという昌幸の圧倒的勝利であった。これを「第1次上田合戦」という。この名胡桃城をめぐる戦いは突然終わりを告げた。佐久で対峙していた家康の軍隊が遠江に引き揚げ始めた。戦どころではない。この変事は景勝家老直江兼続からの密書で判明した。岡崎城代家老石川和正が敵将秀吉に籠絡され出奔してしまった。家康にとって国家存亡に関わる大事件であった。国の機密が敵将秀吉にバレバレとなる。すぐさま軍法を変え人事を刷新した。家康人生最大のピンチがまた襲ってきた。

 秀吉は大名間の私的争いを禁じた「惣無事令」を発令、秀吉の仲裁により天正13年の戦いは和議が成立した。名胡桃城を含めた沼田領1/3を真田領に、それ以外の沼田城を含めた2/3を北条領として定めた。その証として徳川四天王のひとり本多忠勝の娘稲(小松姫)が、家康の養女として昌幸長男信之(信幸)に嫁いできた。小松姫14歳の時である。信之には既に正室がいたが、小松姫の入興により正室は側室扱いとされた。政略結婚が多かった戦国時代にはよくある事例である。封建社会における男の勝手である。現代であるならば大きな人権問題となる事柄である。天正14年(1586)家康は秀吉に臣従、従って家康の昌幸に対する戦いもひとまず終結した。秀吉の働きで上州沼田領と城は真田家の領地として確定したが、真田領の「名胡桃城」が北条によって奪取されると云う事件が天正17年に起きる。この事件は同18年の北条家滅亡の遠因となっていく。同18年5代続いた北条家は滅亡、信之は18歳の小松姫を連れて沼田城に入城した。

 慶長3年(1598)8月、秀吉は幾多の悩みを残したまま没した。家康は天下取りの意向をあらわにし、秀吉の遺言を無視して有力大名たちと婚姻関係を結び、その一方で謀反の疑いがあるとして、五大老の一人上杉景勝に上洛を求めた。これを見事なまでに論破したのが、上杉家家老直江兼続の「直江状」である。江戸っ子を思わせるような小気味よい論調に家康はキレ、上杉討伐の軍勢を編成、会津にむかった。いよいよ「第2次上田合戦」の始まりである。

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